夕陽の梨

夕陽の梨―五代英雄伝

夕陽の梨―五代英雄伝

 実はずいぶん前に読み終えていたのだった。おもしろい小説でした。以下、この小説や真山青果長谷川伸のいくつかの戯曲のネタバレが多いにある妄想感想。
 最初に書いておきたいのは、ぼくは中国史が苦手だということだ。理由ははっきりしていて、漢字が書けないからなのだった*1。日本史もそうなんですけど、漢字が書けずに点が取れないという結果が多く、どうにも嫌になってしまったのだった。特に中国史だと、日常的にはあまり使わない字がけっこう多い気がするのでどうにも苦手……。
 だから朱全忠とか五代十国とか言われてもあまりピンと来ないし、この小説を読んで楽しめるかどうか正直不安だった。歌舞伎を観ているから、日本の歴史だと漢字は書けないながらもどうにかわかるんですけどね。「飯綱虱」は時代劇として普通に楽しめたし。でも中国史はどうだろうと思った。予備知識が皆無に近い状態なのだからして。
 ところが、おもしろかったんだな、この小説は。やっぱり中国史は苦手だし、人の名前も覚えきらなかったのだけれど、それでもおもしろかったのだった。どうしてかというと、この小説を彩る要素をはぎ取っていくと、スタンダードな青春小説になるからだった*2。だからおもしろかった。青春小説というのはいつの時代でもおもしろいものなのです。仁木英之先生の本で一番楽しめた気がする。
 時代背景が中国史によるものになっているけれど、結局はチンピラが成り上がっていくような筋立てになっている。ああ、チンピラっていう言葉が適当がどうかはわからない。はぐれ者と言った方がいいのかしら。よくわからない。でもぼくはこの小説を読んでいて、例えば若松孝二監督の映画「鉛の墓標」や真山青果の戯曲「荒川の佐吉」を連想したのだった。何らかの理由で社会から外れてしまった男が、仁義みたいなものは決して犯さずにのし上がっていく。そんなドラマを連想した。アウトローのドラマですね。
 だからこの小説を読んでいておもしろいと感じたのは歴史がどう動いたかではなくて朱温とその周りの人間との関わりの部分だった。例えば、初めての部下ができる場面。ここでも筋を通すということが重要になっていると思う。それは法律がどうとかそういう問題ではなくて、人として当たり前のことを当たり前にする、その結果、人望が集まる。そんな単純で素直な展開だったと思うんですけど、だからこそ彼らの繋がりは尊いものだと思ったし、ぼくはそういうのに弱い(笑)。長谷川伸のいくつかの戯曲にも通じるものがあるかもしれない。
 こういう部分は中国史云々というよりも、もっと普遍的な主題なのだろうなと思う。国や時代によって価値観ってのは異なっているものだとは思うが、誠実さ、純粋さが作る人間関係は美しいものだと思う。古臭い考え方なのかもしれないし、史実がどうであったかどうかはともかくも、たとえば義経と郎党、浅野内匠頭赤穂浪士みたいに。あるいは創作ですが、「一本刀土俵入」のお蔦と茂兵衛の関係もそうだ。朱温と強力の主従関係も綺麗なものだと感じたよ、ぼくは。ところで全然関係ないけど、強力という字面を見ると「正体は義経ですね、わかります」と思ってしまう歌舞伎脳をどうにかすべきなんだろうな、ぼくは。 
 もう一つ、この小説の中では少年と師匠という関係がありますが、クリント・イーストウッドの映画でありそうな雰囲気だなと思った。イーストウッドの場合はたいてい若者と老いた男という関係があって、若い方が死んでしまう展開が多いと思う。それはあくまで主演がイーストウッドだからなのだろうが、この小説の主人公は朱温で、彼が駆け抜けた青春時代を描かれるわけだからそんな展開にはならない。でもそういう、少年と師というシチュエーションはおいしいですね。成長の過程を描くためのツボを心得てる感じがした(笑)。
 ところでぼくはこの小説をフィクションとして読んだ。史実通りの部分もあるのかもしれないのだけれど、ぼくは無知過ぎて全然わからない。だからひとつの娯楽小説として読んだ。どう読もうと金を出して買った俺の勝手ですよね。と自分を正当化しつつも、この小説はまだ途中だなと最後の部分で感じた。続きがあるんじゃないのっていう。
 というのも、最後に苗を植える場面があるじゃないですか。ここですよ。上に挙げた「荒川の佐吉」や「一本刀土俵入」、そして同じく長谷川伸・作の「刺青奇偶」がそうなんですが、幕切れに桜が咲いているんですね。「荒川の佐吉」では満開の桜の中を男が去っていく。元々「荒川の佐吉」は十五代目の市村羽左衛門真山青果に最初はみすぼらしいが最後にはぱっと花が咲くような男の芝居をしたいと頼んで書いてもらったものらしいんですが、まさにそのような芝居になっています。「一本刀土俵入」と「刺青奇偶」の幕切れでは、完全にとは言えないけれど、思いを成し遂げた男の姿が桜の木の下にある。
 ところがこの小説では苗木を植える場面で幕切れとなる。梨の花はまだ咲いていない。となるとこの男の物語はまだまだ続いていって、最期がこの場所になるのかなと思ってしまったのでした。史実は知らないですよ。あくまで妄想です。そしてここからの物語は、愛する人を失った男の死に場所をたどる劇になるのではないかと思ってしまった。それはいかにもぼく好みなんですが、ウィキで朱全忠の項目を読んでみるとそうはならないのかなとも思った(笑)。まあ史実はともかく、ひとりの人間の生き様を描くという点においてはこの梨の苗木こそが大事なのだろうし、また梨の木が死に場所になるのなら、純愛の劇としての見方もできるのではないかとも思った。もっとも、続きがあるのかどうかはわからんので、妄想以外のなにものでもないんですけど。
 と、ここまで褒めちぎってますが、微妙だなあと思った部分もありました。それは最初の章にある濡れ場で、若松孝二監督のピンク映画的だったらもちろんありなんですけど(笑)、この小説ではそこの妙にねっとりした描写が浮いてしまっているように思えました。もうちょっとさらっとしててもよかったんじゃないかなと。怒りとか無力さを強調したいっていうのはわかるんですけど。あと、佳梨の最期ですね。これいいところで駆けつけるんですよね、わかりま……ま、間に合わんかったー!となるとは思わなかった(笑)。ひどい……。しかも「何このギニーピッグ」とツッコまざるをえないような最期で、何だか悲しかとです。人体解体の細かい描写がなくて良かったけど。ただ、その分幕切れがかっこよくなったというか、ぐっと渋くなったのでそこは良かったかなと。
 でもそんなのは些細なことで、とてもおもしろかったというのを結論として書いておきます。いい小説だと思った。


 ついでの週刊新潮に掲載された「僕僕先生」の続きについての感想をほんのちょこっと。
 これも普通におもしろかったです。続きものだけあって、キャラが立ってるから安心して読める。新キャラのオカ……なまずさんもいい感じですね。料理人師弟のところも含めて、ベタだけどさわやかな一篇であったと思います。しっかりまとまっていて、旅の一場面としていい短篇でした。
 ところでこれ、読んでいてお腹が減ってしまった。読んでお腹が減る小説なんて鬼平くらいかと思ってたんだけど(笑)。

*1:でも先日mixiで中国語の読みについてほんのほんのほんのちょこっとだけ教えていただいて、字面じゃなく音で覚えようとしていたら、俺の態度も少しは変わっていたのかなとも思った。

*2:これについては中国史を知らないぼくがこの小説を楽しむためにはそういう読み方をしないとならなかったというだけかもしれず、実際スタンダードな青春小説になるのかはわからない。