わたしの小説

 方法論、というほどのものではないのだけれど、ぼくの中では小説を書くにあたっての三つの発端がある。実際の事件を元に再構築するもの、現代を強く意識した構造的なもの、そして古典の再解釈だ。どれもやはり「現代」であることが大事なのだが、そもそも「現代」とは何か。
 その前に最後の「古典の再解釈」について少し触れる。これはずばり、既存のテキストとの対峙であって、何年か前に有島武郎の「カインの末裔」をぼくなりに書き換えてみたのだが、どうにもうまくいかなかったのだった。というか、「カインの末裔」の、あの強靭さは何だ。

 長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼れの妻は、少し跛脚をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。

 上の挙げたのは書き出しの文章だが*1、何だかもうすごいことになっている。とにかく歩いている夫婦がひどい状態であることは繋がってくる。「痩」とか「汚い」とか「頭ばかり大きい」とか、負の要素が目白押しである。しかも「彼」は「黙りこくって」いるし、妻は「とぼとぼと」歩いていて、しかも二人は「三、四間」も離れているのだという。冒頭からすでに、ある予感を抱かせるに十分なのだ。
 しかしそれはどうでもいい。ぼくはこの「カインの末裔」が好きで、何度も読み返したが、自分の中で消化するには至らなかった。だからうまく書けなかったのだろう。
 今、注目しているのは能の「隅田川」だ。「能の友」という薄っぺらいガイドブックに全編が掲載されているので、やはり何度か読み返している。歌舞伎になったものを観たことがあるが、信じられないくらいに陰鬱な舞踊劇であった。
 物狂いの女がかどわかされたこどもを尋ねて、隅田川のほとりへやってくる。隅田川の渡し守は彼女を船で渡すかたわら、人買いにさらわれて死んでしまった少年の話をする。その少年こそが、女のこどもだった。奇しくも、その日は少年の一回忌。命日の法会に加わった女の前にこどもの幻が現れるが、すぐに消え失せてしまう。
 わかりやすくするとこんな筋書きなのだが、ぼくは何でかわからんが、この「隅田川」に惹かれているのだ。もしかしたら高校・大学時代に隅田川を毎日目にしていたからかもしれない。換骨奪胎を試みるにあたって重要なのはワキである渡し守であると思う。この人物に関して、ぼくはよくわかっていない。そもそも能自体いまだ観ていないものであるのだからして、わからなくて当然だ。行こうとは思うのだが、何故かビビってしまうのだ。へたれだしな、ぼくは。歌舞伎は所詮歌舞伎だから何とも思わんのだけれど、能は違う気がするんだな。ちょっとレベル高い気がする。でもまあ、「隅田川」は観たいな。
 実際の事件を検分し再構築する作業というのは楽しいが、大変だ。ロリータこんぺに投稿した「かりそめの形成」という短編の根っこは実話だ。コロンビアで実際にあった事件を使わせてもらった。上限があったのでなかなか難しかった。本当はもっと書き込みたかったのだけれど。ちなみに題名は、誰もわからんかったと思うが、「仮初の傾城」という歌舞伎舞踊を変えただけのものだ。どうでもいい。
 北九州で起こった連続殺人死体遺棄事件は本当に興味がある。しかしこれを劇化する作業というのは相当難しい気がする。なぜかというと、この事件に関しては、フィクションが現実を乗り越えることは難しいと思ってしまうからだ。詳しくはルポルタージュが何冊か出版されているから、そちらを読んでもらいたい。相当グロいから覚悟の上で。
 そして、最後になってしまったが、現代の小説だ。ぼくが一番気にしているのは言葉で、特に若者が発している軽い言語だ。平坦で空虚で薄っぺらい言葉たち。あれはいったいなんなんだと思うことがある。去年の大晦日近く、あるカップルの、電車の中での会話だった。

男「初詣どこ行く?」
女「え?」
男「初詣」
女「うん」
男「大宰府?」
女「え? 大宰府って千葉?」
男「え?」
女「成田?」
男「うん」

 いや「うん」じゃねーだろと思った。ぼくはちょうど座席に座って本を読んでいたのだが、何がなんだかわからなかった。もう本の内容なんて、頭に入らなかった。
 「大宰府って千葉?」が特に意味不明であるが、「大宰府」に関する知識がなければ、そう思っても仕方ないのかもしれない。最大の問題は二つの「うん」なのだが、この会話の齟齬がどうにも現代的であると感じたのだった。
 構築性のない短いセンテンスでの会話、というのは現代的だろう。それはいい。そこに近代の要素を付け加えてみたり、劇構造を解体してみたり、いろいろとやれることはある。しかし大事なのは現代の言語を意識するということだ。
 今年、岸田戯曲賞を受賞した「愛の渦」という戯曲にはこんな台詞がある。

女 2「(切れて)つーかさ……あんたさ……みんなにマンコが臭いって迷惑がられてるよ。まじで」

 ここだけ抜き出すと、いったい何が起こったのか、と気にしてしまうかもしれないが、とにかく「マンコが臭い」女がいるのだ。このあとは以下のように続く。

女 4「(顔が凍りつく)」
女 2「え、何? クラミジア?」
女 4「……」

    最悪の空気。


    長い沈黙。

 この瞬間、舞台は空虚になる。人がいるのにも関わらず、明らかに空虚だ。身体の不在が身体の存在に繋がるという逆説がここで発現しているように思えてならないのだが、そこは現代演劇の文脈だ。小説の文脈ではない。しかしながら、これらの台詞の柔らかさというかぶつ切り加減は、まさに現代性と呼べるのではないか。
 というかね、「マンコが臭い」っていうのがいいよね。なかなか書ける台詞ではない。きっと本当に臭かったのだろう。現代小説の文脈では、羞恥のなさ、といううのも重要なファクターなのかもしれない。
 今年に入ってから二度、小説のコンテストが開催された。ぼくがそこに投稿したものに現代性を重視しなかったのは、上記のような表現がきっとできないという理由がある。
 例えば、学園ものという一つのジャンルがある。他の方は知らないが、ぼくが「学生」というものを描こうとすると、「性欲」を切り離せないのだ。つまり、サンプルに過ぎないが、以下のような台詞が頻出するに違いないのだ。

「一回やらせてよ」

「ちょっとフェラしてくんない」

「あいつマンコ黒そうじゃね?」

「無理。クンニ無理。何かくせえし」

「いや、彼氏チンポちっさいから」

 これらは今、適当に考えたものだが、きっとこんな台詞を書くだろう。どういう状況下はともかくとしてだ。インターネットというのは自由そうに見えるが、まっとうであろうとするサイトは規制でがんじがらめになってしまうはずだ。いつ消されてもかまわない、というスタンスで運営されているサイトはいい。しかし今回のコンテスト会場のような場ではやはり規制は存在しているだろう。きっと「マンコ」や「クンニ」に反応があるのだ。サイト自体が削除されてしまっては、迷惑どころの話ではなくなってしまうので、やはり書けないのだ。
 しかし「マンコ」を猥褻だとして削除対象にするのは世界中の「マンコ」に対して失礼だ。ぼくが考えるに、猥褻とそれ以外をわける一線は「マンコ」の提示の仕方にあるのだ。例えば「マンコ」をチンポコやバイブレーターやローターやきゅうりを突っ込む快楽の道具として提示すれば、それは猥褻になりえるかもしれない。しかし「マンコ」という言語を発している身体は、きっと「マンコ」という言葉が野晒しに発せられたときのインパクトと反比例するように薄い存在ではないのかと考える。その薄さこそが現代であって、薄さを提示するために「マンコ」はやはり必要なのだ。逆にたったひとつの「マンコ」が人間の身体を凌駕してしまっているのだ。それはとても空虚だ。舞台空虚。「マンコ」や「チンコ」が発せられてもなお、やはり空虚だ。
 ということをずっと考えていたのは、文學界新人賞の締め切りが一ヵ月後に迫っているからだ。新潮新人賞日本ファンタジーノベル大賞も投稿できなかったぼくにとっては正念場だ。書かなければならない。
 悩ましいのは読まなければならないものがたくさんあることだ。「曽根崎心中」、「冥途の飛脚」、「心中天網島」、そして「隅田川」。読まなければならない。「心中天網島」だけはテキストを持っていないから、古本屋か図書館を頼らなければならない。
 文学っていうのは何だろうかと考える。「影響を受ける」ということを「刺し殺される覚悟で刺し殺す」ことだと言ったのは誰だったかな。書かなくちゃ。
 今日の日記は恥ずかしいので、消すかもしれません。酔っ払っているから、どうにもまとまんねーな。

*1:これも青空文庫でロハで読めますよ。と宣伝。だからといって、青空文庫の回し者ではない。横書きとはいえ、タダで読めるのだから、活用すべきなんじゃないのという提案。