ロリこんの感想

 No.5の「gift」について。以下全力でネタバレ。
 この小説を全く楽しめなかった理由というのを考えていると、何がしたいのかよくわからないという点に尽きるのだった。おそらくはやさしい幻想小説的なものを描こうとしているのではないかと想像できるのだけれど、筆致がどうにもSFかミステリのそれであるように思え、何だか乖離してしまっている。幻想小説としての無理さは、すべてをあまりにも明確にしてしまっているところで明らかだと思う。もちろんぼくの幻想小説観での感想なので、あまりそこを責められると困る。
 幻想小説の魅力というのは、不意に侵食してくるような何気なさであるとぼくは思っていて、でもここでは過去と現在がかなりはっきりとわかれてしまっている。諸星大二郎の「ぼくとフリオと校庭で」がどうして傑作なのかというと、その不意に何かが垣間見える瞬間が曖昧に描かれているからだ。でもこの「gift」では、はっきり書き過ぎたよなって思ってしまう。わかりやすいという要素は幻想小説にとっては仇になる。感じ悪い表現になるが、順位を狙ったのかな。かな。
 淡々としている全体像もマイナスポイントなのである。最中さんや初貴さんの小説も結構淡々としていることがあるように思えるが、そこにありがちな真っ黒いまま終わってしまった青春のイメージというのもなくて、これは完全に個人的な好みなのだけれど、あまりいい印象がないのである。淡々と黒いからね彼ら。まあフィーリングの問題ですね。安全な場所から俯瞰しているみたいな印象。一人称で書いておいて、何も晒さないというのはどうなんだよ。西村賢太の小説には何か書く必要があったのだろうなという熱気があるけれど、この小説にはない。かといって、冷たいというわけでもなくて、何だろう、素うどんみたい。
 やっぱりこれはSFかミステリの文脈から読み解くべきなのだろうか。しかしぼくはこの物語に驚きを感じなかった。というのも、冒頭近くにある初恋がどうのという描写と過去の鳴美に会う場面でピンときてしまったからである。これはおそらく筒井康隆御大の「時の女神」的なあれなのだろうなということだ。そして予想通りのオチがあるのだけれど、それはともかくも、やっぱり全体としてはっきりしないのである。そのはっきりしなさが意図のはっきりしなさであって、例えば宮沢章夫の「サーチエンジン・システムクラッシュ」的なはっきりしなさではないところが、楽しめなかったところなのだろう。
 だがいい描写もあった。

土手に上がると、西の空は鮮やかな暮色に染まっていた。鳴美を促して川原へと下り、流れに沿って歩き出した。が、やがて橋の下を抜けたとき僕の前に現れたのは、昨日のような違和感など全く見当たらない、ごく普通の川原の光景だった。僕は立ちどまった。
「高層ビル、見えるな」
「見えるね」と鳴美は返した。「それがどうかした?」

 ここなどは絶品である。黒沢清「叫」を観たからなのかもしれぬが、現在に埋もれた過去みたいなものがぼんやりと感じ取れる。うん、ここはよかったよ。ここだけで2点くらいあげられる。
 ただやっぱりぼくはこの小説を評価できないのである。もっとも、これが幻想小説を意識しないで書かれたものであるとすれば、ぼくの感想はまったくもって的外れになる。ぼくがこの小説を幻想小説として読んだ根拠は以下の箇所による。

 土手に登る階段の、月光に切り取られた濃い影の辺りにさしかかったとき、その色に霞むように、闇に溶け込むように、彼女の姿は消えた。
 次の瞬間、冷たい風が吹き寄せて川面がざわめいた。過去への扉が、その役割を終えて閉じたのだろう。空に丸い月が浮かんでいた。対岸には高層建築群の放つ光が冴えていた。そこは紛れもなく僕の住む世界だった。
 長い旅の果てに故郷へ帰ってきた、そんな心地がした。

 三人称ならいいと思うのだけれど、一人称だとどうしても「どうしてこんなに冷静なんだろう」という風に思ってしまうのだった。それは全編に対して言えるし、この冷静な感じをおれはどこかで否定してしまっているのだろう、語るという意識に対して、ということだ。
 一人称の語り方と、時間と空間の垣根をどうにかして取っ払うということにこだわろうとしているおれにとっては、わりと普通の小説であるという印象が拭えないのだった。だが、ここまで長々とくだらん感想を書くのにも理由があって、「もっと書けるんじゃないの」と思っているからなのですよ、にぱー。