マジックリアリズムについて

 最近、書評だの何だので「マジックリアリズム的手法」という表現を目にすることが以前よりも多くなってきているように思えるのだけれど、疑問に思うのはマジックリアリズムってそう簡単に書けるのかってことなのだった。以下、戯言。
 そもそもの始まりは美術用語だっていうのは常識だとして、それを小説に持ち込んだというか、小説内に見出した代表的な作家がアレッホ・カルペンティエルミゲル・アンヘル・アストゥリアスになるのかな。彼らが国外でシュルレアリスムに触れたとき、そんなものはラテンアメリカでは日常的に存在しているものじゃないかというのが始まりだと何かで読んだ。「幻想文学」かな。
 これって要するに視線が二つあるってことで、ある事柄を「マジック」として捉える西洋(=近代)的な視線と、「リアル」として捉える土着的な視線が交錯しているってことなのかと考えた。大規模でも小規模でもいいのだけれど、文明の衝突みたいなものが起こっていて、(小規模の場合は見解の相違くらいにとどまるのかもしれないけれど)、それをどこから見ているのかで作家性が生まれている。例えばカルペンティエルは共同体の外から、ガルシア=マルケスは共同体の中からでしょう。
 ただほとんどのラテンアメリカの作家はヨーロッパで西洋的価値観を手にしているわけだから、ある出来事が近代あるいは土着の目線の中でどう映るかをわかっていて、その意識の落差がびっくりするような酩酊感を生むのだろう。さらに特殊なのは、フォークロア的な視座の中にも、ラテンアメリカの文明がかつて侵略され滅ぼされてしまった結果、西洋的な要素だったり、あるいはアフリカ的なものが前提として混ざってしまっているからなんだろう。
 ガルシア=マルケスの「百年の孤独」はメロドラマの要素を含みながら、完全に共同体内部からの目線で描いている。だから幻想性が妙に近い。むしろマジックリアリズム感が強いのは「雪の上に落ちたお前の血の跡」とかなんじゃいないかと思うんだけど。大事なのは「驚異的な現実」を見つめている目線があるかないかってことだろう。「百年の孤独」にはメルキアデスがいる。ただ幻想的なエピソードを連ねるだけではマジックリアリズムにはならないはずだ。例えばフエンテスの「チャックモール」はマジックリアリズムだけれど、「アウラ」は幻想小説だと思うんだよね、ぼくは。
 で、何が言いたいかっていうと、森見登美彦っておもしろいの?ってことなんですけど。読んだことないんで。本当にマジックリアリズムなんだろうか。