黒沢清 21世紀の映画を語る(一)

 去年、池袋のシネマロサで行われた黒沢清監督の4夜連続講演『黒沢清 21世紀の映画を語る』に連日通っていました。これがとてもおもしろく、ためになる講演でした。もちろんぼくは映画の作り手でも批評家でもなく、ただの映画ファンであり黒沢ファンなんですけど、ためになると言っていいと思う。ちょっと小説にも応用できればとも思う。
 その講演会の記録をちょこちょこっと記録しておこうと思った。これは黒沢監督のお話を聞きながら取ったメモを参考に書くもので、禁止されていたので当然ではあるんだけども録音なんてしていないので、間違ったところがあったり勝手に解釈してしまっているところがあったり、あるいは間違った解釈をしているところもあるかもしれない。ぼくはただ映画が好きなだけで、実作者でも何でもないのでいろいろと誤りがあるかもしれない。でもぼくなりに4日間をまとめたものになればいいなと思う。
 というようなことを考えている内に年が明けてしまったのだった。まとめようにも忘れてしまっていることも多くて、でも記録しておきたい気持ちも少しあって、ここは自分を追い詰めるためにも1日目だけとりあえずアップしておこうと思った。がんばって、第2夜以降も続けていきたいですけどね。なかなかね。

  • 第1夜 リアルとドラマ

 この日のお話は映画監督を志すアジア各国の学生たちにプサンで講義を行ったときに多く訊かれた質問が「どうすればリアルに撮れるか」というものだったというところから始まりました。彼らはリアルに撮れることがおもしろさだと思っているようだが、はたしてそうなのか、という疑問。

 ここで上映された『リダクテッド』はPOV方式で作られた戦争映画で、イラク戦争のリアルを伝えようとした作品。しかし黒沢監督はこの映画に対して、リアルっぽさが強すぎてあざとく、ちょっとどうかと思うというようなことを仰っていました。
 イラク戦争への批判を映画で作るということはもちろんありだけども、このスタイルではあからさまで安直なものに成り下がってしまう。逆に客観性がなく、ヒステリックであると。
 映画であることを通して批判すべきであって、ここで名前だけ挙げられた優れた戦争映画が『最前線物語』、『プライベート・ライアン』、『スリー・キングス』でした。で、最新作だと12月公開予定の『誰がため』がすこぶる素晴らしく、そして『イングロリアス・バスターズ』も良かったと。

 ただリアルさが常にダメなわけでもなく、娯楽にふるとうまくいく場合がある。そしてそういった場合、ホラー映画との相性がいいようです。例を挙げれば、『クローバーフィールド』、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、『悪魔のいけにえ』、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』。
 何が何でもリアルであればいいというものではなく、上に挙げた作品のように何らかの設定を付ける必要がある。そうしないと白々しい、押し付けがましいものになってしまう。

 次にリアルな映像ということで例に挙げたのが監視カメラ的な映像でした。カメラがある場所を映し続けていて、たまたま登場人物が映っているように撮られるというタイプの映像。そこには町の佇まいや流れていく日常の時間、人々の様子が映されていて、客観性があるからリアルに感じられる。
 しかし問題があって、そういうタイプの映像は最初は珍しいんだけども、すぐに退屈してしまう。淡々系という言葉を使われていましたが、まさにそういうタイプの映像だと思います。だから興味を呼ぶ要素=ドラマが必要で、これもホラー映画との相性がいいとのことでした。
 それは何かが起こるかもしれないという興味を引くものを入れやすいからで、ホラー的な展開にすれば退屈は回避できるようです。逆に恋愛映画や人情ものだと淡々としていると言われ、しかし音楽を入れたりするとリアルさからは遠ざかってしまう。
 ここでドキュメンタリーはどうなんだという話になって、ドキュメンタリーでも音や文字で盛り上げないと退屈してしまうのはいっしょ、と仰っていたように記憶しています。でもここら辺ちょっと曖昧です。
 そして映画のリアルや迫真さを決定づけるものは何か。シナリオなのか俳優の演技なのか。ということになって、まず映像のリアルさはテレビ番組が先を行っているかもしれない。というのも、例えば『こんな映像がとれちゃいました』っていう番組は間違いなくリアルだから、ということでした。しかしそういうたまたま撮影された映像には物語がないから、どんなにリアルでドラマティックでも映画とは呼べない。

 この映画については、まず山本富士子の京都弁がリアルで、CMで観られるモックンと宮沢りえの京都弁は偽物、というところから始まりました。この映画はスタジオで衣装、照明、美術をしっかり作って撮影しているのにもかかわらずリアルで、しかし山本富士子はリアルもドラマも超越し、小津映画を体現していた存在。と仰っていたように記憶しています。


 ここからが1日目の本題ともいえるんですが、映画におけるリアルとドラマがどう対峙しているかということで、まず脚本の段階ではリアルはなく、ドラマやストーリーと呼ばれるものがある。逆に撮影はリアルそのものになる。カメラは目の前の出来事を記録する装置であり、撮影行為でリアルやエモーションがはぎ取っている。
 カメラが目の前のものを撮影するのはリアルそのものだけれど、脚本通りに行っている以上それはうそっぽい。そしてリアル:ドラマ=撮影:脚本がが編集の段階で混ぜられる。結果としてリアルともドラマともいえないものが出来上がり、それこそが映画なのかもしれない。
 映画というのは本質的にリアルとドラマに引き裂かれた破綻した表現形態であり、そうなっていない映画はインチキっぽい。
 ここから、参考上映が続きます。ちょっと上映に夢中になってしまったので、黒沢監督のコメントはメモ的に。

 ドラマとリアルの両方をとった結果の映画のようだが、かなりインチキっぽい。(次の作品の上映に時間がかかって、黒沢監督が時間を埋めようとして「トリアーはちょっと」みたいなことを仰っていたんですが、上映が始まってしまったので途中までしかお聞きできませんでした。ネガティブな印象を持っているような雰囲気ではありましたが。ただ、ぼくはこの映画を嫌いなので発言に補正がかかって聞こえていたかもしれません。)

    • 参考上映5『フェイシズ』(ジョン・カサベテス)

 カットごとにリアルとドラマを行き来している。ジョン・カサベテスは最も早く、映画におけるリアルとドラマの混乱に気づいた作家かもしれない。

 いわゆるスラッシャー系の映画の出だし5分を1時間に引き延ばしたような作品。これはリアルともドラマともいえないかもしれない。

 リアルっぽいが、インチキくさい。でもインチキくささこそがおもしろい。「彼岸花」の山本富士子と共通するものがある。


 ここまで観てきてきた作品を踏まえて、リアルとドラマのつじつま合わせをどうしているかに作家の個性が出るのではないかということでした。


 映画が映像で成り立っている以上、映画の本質は映像である。リアルさやドラマ、音、俳優の演技などを全体として感じとっていて、脚本そのものを観ているわけではない。
 しかし全ては脚本に書かれている。映画の裏側にあるのは脚本なのか。監督は映画全体の作者ではあるけども、クリント・イーストウッドのように脚本を書かない監督もいる。
 じゃあ映画を作るとは何か。脚本はその中に含まれるのか。そもそも脚本とは何で、映画の中でどのような役割を果たしているのか。
 といったことを次回にまわし、1日目の講演は終了となりました。


 今回の講演企画では毎回に映画のラストシーンを上映して終わるという趣向になっていました。これ、けっこうおもしろかったな。