評論

カルロス・フエンテスの「セルバンテスまたは読みの批判」*1を読んだ。
フエンテスはメキシコの小説家で批評家。知識の塊みたいな人。
メキシコというのは不思議な土地で、他にもアルフォンソ・レイエスとかオクタビオ・パスなんていう碩学がいるわけですが、このフエンテスはレイエスとかパスよりも小説家よりだな。
翻訳も結構出ているがほとんど絶版で、岩波文庫の「アウラ・純な魂 他四篇」*2岩波書店のホームページによると品切れ状態のようだ。安くて手に入りやすかったのにな。
この「セルバンテスまたは読みの批判」は小説ではなく評論で、セルバンテスの「ドン・キホーテ」を核にして、文学の歴史と意味を洗い直す作業。
それに加えて、「ドン・キホーテ」をスペインという独特の歴史を持つ国*3が産む必然性も論じられていて、おもしろかった。
ぼくは在学中にスペインや中南米の歴史を学んでいたので、すんなり理解できた。というか思い出しながら読んでいた。
つまりイスラムユダヤカトリックという三つの文化が混在していた地域*4から文化の多様性が奪われつつあるときに多義的な読みを必要とする書物=「ドン・キホーテ」が産みだされる必然。
自分でも何を書いているのかわからないくらいなのだけれど、読んでいて、非常に興奮した。
ていうか、フエンテスも翻訳者の牛島さんも相当興奮してたんじゃないか。
文章のテンションが高くて、いいよ、この評論。熱いね。
筆者が興奮し、訳者が興奮し、読者が興奮する。まさに3P。
このフエンテスという作家の最重要作品であり、ラテンアメリカ文学だけでなく、世界の文学の歴史に含めても屈指の作品であると確信している「テッラ・ノストラ」の翻訳はいつになるのだろう。
売れないから出版されないのかなあ。
出版されたとしても、2500枚だから3分冊になるのかもしれない。あ、いや、阿部和重の「シンセミア」が1600枚くらいだから、4冊くらいになっちゃうか。
すごい印象に残った文章があったので引用する。
中世以前の叙事詩(=テキスト)にはただ一つの意味しか込められておらず、以降は既存のテキストの延長であり、変形にすぎないという文脈の後の文章。*5

もし新たなテキストが以前の形式の規範を尊重していれば、その記述は単に、唯一の読みの規範に貢献する、外延的な差異を導入しているにすぎない。『神曲』はこうした操作の最高の実例、天才による実例である。また今日のベストセラー小説に見られる、地下鉄の駅をほんの二つ三つ通過する間に読めてしまうような類は、同種の最も嘆かわしい例である――それは十九世紀の通俗小説の堕落した子孫なのである。

さすがカルリートス。いいこと言ってくれる。
感動した。
もう一回言って。

もし新たなテキストが以前の形式の規範を尊重していれば、その記述は単に、唯一の読みの規範に貢献する、外延的な差異を導入しているにすぎない。『神曲』はこうした操作の最高の実例、天才による実例である。また今日のベストセラー小説に見られる、地下鉄の駅をほんの二つ三つ通過する間に読めてしまうような類は、同種の最も嘆かわしい例である――それは十九世紀の通俗小説の堕落した子孫なのである。

やっぱ、そうだよね、うん。

*1:

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

*2:

フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

*3:本当は国と書いてしまっていいのかわからないのだけれど

*4:ここで国と書かないのは少し抵抗があるから。

*5:で、「ドン・キホーテ」はそのような一元的なテキストをぶち破る革新的な小説であるというのがこの評論の基本ライン。