マンダレイ

どうして銀座にいたかというと、映画を観に行ったのだった。
シャンテ・シネでラース・フォン・トリアー監督の新作「マンダレイ」を観た。
前作「ドッグヴィル」の続編で、3部作の2番目。
ドッグヴィル」では主役のグレースをニコール・キッドマンが演じていたのだけれど、役者が交代し、今回はブライス・ダラス・ハワードという若い女優になっていた。
このブライスがよかった。矛盾に押しつぶされそうになるときの顔がとてもいい。

 1933年。ドッグヴィルをあとにしたグレースは、父親らと共に新たな居住地を求めてアメリカ深南部へとやって来る。やがて“マンダレイ”という名の大農園にたどり着いた彼らは、そこで驚くべき光景を目にする。白人が黒人を鞭打っていたのだ。70年以上も前に廃止されたはずの奴隷制度がここには残っていた。グレースは黒人たちを今すぐ解放し、彼らに自分たちの権利と民主主義を教育しなければならないとの使命感に駆り立てられる。そして、父親の制止を振り切りさっそく行動に出るのだったが…。
(allcinema ONLINEより引用)

マンダレイでとられたグレースの行動というのは現アメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュに重なるし、それだけではなくて、GHQによる日本の戦後処理であったり、あるいはレーガンによるニカラグアへの攻撃ともつながるかもしれないし、さらに挙げれば、エルサルバドルグアテマラ、いくつかのアフリカ諸国とも関連付けられるかもしれないが、むしろこの映画はひとつの神話的な、象徴的な物語であり、ただの寓話にすぎないのなのだろうと思った。
劇中にある、「準備ができていない」という台詞はそれを象徴している。
準備ができていないのは解放する方もされる方も両方なのだろう。
それは今のイラクを見れば、すんなり飲み込める考え方だ。
価値観の無理強いがいかに不遜なものであるのかをはっきりと描き出していて、まあグレースはそれを善意でやっているから余計にたちが悪いわけで、人間のドラマは際立っていたね。
価値観の無理強いといえば、二月に歌舞伎座で上演された「人情噺小判一両」だ。この芝居も侍、町人の前にまずは人間であるという価値観を信じた町人の善意が生む悲劇を描くよく出来た芝居だ。
マンダレイ」を観終わってからぼくは何となくこの芝居を思い浮かべていた。そういえば、寺山修司の「奴婢訓」なんて芝居もあったななどと考えつつ、ある主題が時代と場所を越えて共有されているという事実にわくわくしてみたり。


セットを組まずに、ベッドやテーブルを置いて線を引いて区切っただけというのは前作「ドッグヴィル」と同じだ。3部作だからある程度同じ方法論で作ろうという意図があるのだろうが、奇抜さが薄れ様式的にも感じられ、次以降はどうなのだろうかと思ってしまった。
このスタイルよりも、今回はシナリオ自体がよく練りこまれている印象があって、民主主義者グレースが良かれと思っての行動がことごとく裏目に出て、どんどん追い詰められていく、その姿が鮮明だった。
ハンドカメラでネチネチと撮られているものだから、不愉快にもなったりしたが、そこがいいんだな、この監督は。これがないと観た気がしない。(笑)
上映時間は2時間以上の長尺なのだけれど、なかなかどうして時間を感じさせない出来だったのだった。脚本がいいんだろう。
余計な部分無しでこの尺なのだから、ナレーション省いてちまちまやっていたら、3時間を軽く越える大作になっていたに違いない。


とにかくおもしろかったのだった。
ぼくは「ドッグヴィル」よりもこの「マンダレイ」の方が好きだ。
ニコール・キッドマンよりもブライス・ダラス・ハワードが、少なくとも「マンダレイ」にはあっている。*1
しかしこれからを考えると、ラース・フォン・トリアーのいく道は険しいように思えてならない。
このセットを組まない手法はもう飽和状態で、何も生み出せないような気がする。
いっそ本当に何も置かないで、いわゆる素舞台の状態でやる、というのが最終形態であるように素人のぼくは考えてしまうのだけれど、そんなのは奇抜なだけで意味がないものだろう。
むしろもっと役者を追い詰めるべきだと思うのだ。ポツドールセミドキュメントみたいに、役者を極限まで追い詰めてみればいい。
ポツドールはものすごくパーソナルに追い詰めたが、一流のハリウッドスターを虚飾を剥ぎ取るくらいの気持ちで追い込んでしまえば、あるいは劇的な何かが生まれるかもしれない。
ラース・フォン・トリアーならできる気がする、別の映画になりそうだけれど。(笑)
とにかく3部作の最後、「WASINGTON」が楽しみだ。


余談だけれど、セット的には演劇的なのかもしれないが、手法としては舞台劇とはかけ離れていると思った。
何しろハンドカメラでのアップが多く、アンサンブルのアの字もない。
非常に映画的な映画だと思うんだな、これは。


さらに余談だけれど、映画におけるボカシとかモザイクの線引きがこの「マンダレイ」を観て、またわからなくなった。
チンコとマンコにボカシなしだったのだな、この映画は。まあ、マンコっていうか、毛だけど。
先日観た「ヒストリー・オブ・バイオレンス」はボカシが入ってた。
この違いは何なんだ。

*1:逆に「ドッグヴィル」はニコール・キッドマンじゃないとダメだと思う。