マーティン・マクドナー

 東京グローブ座で「ウィー・トーマス」のプレビュー公演を観てきたのだった。マーティン・マクドナー/作、長塚圭史/演出。忘れもしない3年前、2003年に初演されたものの再演。初演のときはあんまりグロいので途中で帰るお客さんがちらほらいたとか。
 ていうか、マクドナー/作&長塚/演出の再演をするんなら「ピローマン」だろうとか思っていたのだが、あらためて今回観てみて、この「ウィー・トーマス」もなかなかおもしろいではないかと思った。初演のときは血糊だの内臓だの銃声だので度肝抜かれ過ぎてて、あんまり冷静に観られなかったから。
 そして今回の再演だが、キャストが一新された結果、まだアンサンブルがよくないし*1、台詞が滑らかでないところもいくつかあったが、まあ、おもしろい芝居ではあった。初演のときよりも、閉塞感のようなものが強まっているような気がする。それは最近ぼくがよく感じるようになった「行き場のなさ」のことだ。もっとも、それは観客であるぼくがある程度冷静に芝居を観ていられたからなのかもしれないのだけれど。
 感情移入が容易になったのかな。パドレイクの「この家はウィー・トーマスの思い出でいっぱいだ」というような台詞がダイレクトに響くのだ。
 しかし、アイルランドとイギリスの関係をよく知っていないと、怒りの理由がある程度しかわからない。これはもちろん観客の問題であって戯曲の欠陥ではないのだけれど、そこが残念だよね。バスクとカスティージャ、カタルーニャとカスティージャの関係と似ているのかもしれないけれど、同じではないし、やはり国家と民族と歴史っていうのは難しいよ。スペイン史は学んでいたからわかっているつもりだけれど、アイルランドとイギリスは不勉強だから、ぼんやりと想像することしかできなくて、抑圧と反発の構造がぼくの中ではまだ不明瞭だ。
 新大久保の東京グローブ座での公演はプレビュー公演扱いで、この後地方を回って、今月末から渋谷のパルコ劇場で上演される。こっちが本公演。正直一回観ればいいかなと思っていたが、もう一度観に行くかもしれない、余裕があれば。それまでにアイルランドIRA関係の本を読んでおくと、さらに楽しめるのかもしれない。
 しかしこの芝居は政治的な要素を内包した個人劇であり、家庭劇であるように思える。そして、ここが一番大事なのだが、喜劇なんだな。グロいけど、明らかに喜劇だ。はっきりいって笑える。悲喜劇っていってもいいのかもしれない。最後の最後でひっくり返るし。一番最後に残るのは「舞台空虚」。これだ。
 チケットの売れ行きが悪いようなのは残念なことだ。おもしろいんだもの、これ。グロいのがOKだったら、ぜひ観に行って欲しいな。客がいないのは悲しいよ。血糊とか内臓とか、あと猫を銃で吹き飛ばされてもOKだったらの話。
 そういえば、劇場販売限定で「ウィー・トーマス」と「ピローマン」の台本を売っていた。マクドナー戯曲が翻訳されるのはおそらくこれが初のはずだ。もったいないなあ普通に売れよって思っちゃうんだが、戯曲は売れないからしょうがないのか。で、当然のように両方とも買いました。

*1:局所的にはいいのだけれど、全体でみると、そうでもないように思えた。