戯曲

 マーティン・マクドナーの「ピローマン」を読んでいる。11日に新大久保に「ウィー・トーマス」を観に行ったときに買ったものなのだが、もう三度くらい読んだ。本当にいい戯曲だし、好き嫌いで言えば「ウィー・トーマス」よりも好きだ。再演してくんねえかな。あ、もちろん「ウィー・トーマス」も大好きですよ。
 マクドナーの戯曲には真摯な部分があるんだよね、って大抵の、映画でも戯曲でも小説でも音楽でもそうだが、作家性というものはどんなものにも確実に存在している。マクドナー作品の中で、その作家性が悲鳴を上げているようにぼくには思えるのだ。
 「ピローマン」の幕切れの台詞にある、「しかし…とにもかくにも…作家の精神は保存されたのです」というのは、マクドナーからのカウンターであるように思えてならない。それは舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。*1を読んだときに感じたことと似ている。私生活において、何か批判めいたものがあったのではないか、ということだ。
 もちろん私小説の、マクドナーの場合は私戯曲になるのかもしれないが、色合いが濃いから手放しで褒めているわけではない。その私的な要素(にぼくが感じている台詞なり文章なり)が叫び声のように響くからだ。それは悲しく痛々しいくらいだが、真摯で、極めて純度の高い表現であるように思えるし、それが露骨に前に出たものが、マクドナーの「ピローマン」の言葉を借りれば、「作家の精神」になるのではないか。
 ただ舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」については、その私小説的色合いが濃い部分はあまり好きではない。かなりキテるけど。好きなのは最初のエピソードと夢のエピソードだ。
 まあ、それはともかく、政治的主張でも説教でも何でもなく、やっぱり作家の悲鳴という表現があっていると思う。舞城王太郎はたまに説教臭いが、マクドナーはさらっと書いている。台本と小説の違いはあるけれど。そういったものはおおむねどす黒く、べったりしている。そういう文章を読むのは好きだ。何よりも胸に響く。
 この「ピローマン」と「ウィー・トーマス」の戯曲は、翻訳の目黒条さんのブログによると、一般の書店でも流通するとのことだ。単純に嬉しいな。売れないだろうけれど。

*1:

好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。