小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか?

 おもしろそうなので、書いてみようかと思う。文章が映像になるかということだ。大元がここ*1で、目にはしたがへえと思うにとどまっていたのだが、2%さんのとこ*2とか仮面の男さんのとこ*3とか渡部初貴さんのとこ*4とかで他の方の意見を目にし、たぶん今、なる派-ならない派間で、まあ水面下では激しいせめぎあいが行われているのだろうと思い、遅らせながらぼくも書いてみることにした。
 結論からいうと、ならんね。いや、「ならんね」とか、何でそんなにえらそうなんだよって話なのだが、ならないものはならないのだから仕方ない。少なくとも映像にはならん。脳が腐っているのかどうかは知らんが、文字は文字だ。やっぱり映像にはならない。
 それはもちろんラノベを含んだ「小説」とかあるいは「評論」の話で、「戯曲」とか「上演台本」となると話は別だ。実際に上演されたものを観たことがあればそれがデフォになるし、観ていなければ、過去の上演の記録をもとに想像しながら、読むことがある。これは「戯曲」および「台本」が上演を前提に書かれた、俳優の身体で表現・発話されることを前提に書かれたものであるからだ。あるいは演出家の目線で読むこともある。それはテネシー・ウィリアムズとかチェーホフを読むときに顕著だ。その場合、舞台があって、俳優がいるところまで想像するし、映像といえるかもしれないが、どちらかといえば、稽古に演出家として立ち会っているという状態を想像してしまう。
 話がそれましたが、小説を読んでいて、映像を喚起することはほとんどない。映像化するなら、舞台化するなら、という風に考え始めた場合は当然浮かぶのだけれど、ただ読んでいるだけの状態ではほとんど映像にはならない。
 それはお話を楽しんでいるのではなく、文章を楽しんでいるからなのかもしれない。ちょっとした動作の描写を実際に自分の身体で試してみることはあっても、やはり映像としては認識しないな。あと人の顔とか町並みとかそういうものも、描写されているものとして把握しても、映像には変換しないし、たぶんできない。
 ただ、映像にはならないけれど、音声にはなる。言語は音声だから。自宅で読むときは、完全な音読ではないけれど、ぶつぶつと口を動かしながら読むことが多いので、どうしても音声としての文章を感じることが多い。言葉は音でしょ、みたいな。だからフリースタイルな文章は好きで、それはジャズっぽいというかなんというかなのだが、例えば古川日出男の文章っていうのは非常に音声的だなと感じているし、好きだ。そういう文章はエンタメとかラノベよりも現代文学に多いので、嗜好がそっちに寄ってしまうわけですね。
 もう一つはレイナルド・アレナスの「夜明け前のセレスティーノ」だ。映像になるよ派の方々はこの小説も映像になるのかどうか試してもらいたいくらいなのだが、それはともかく、これは音の小説であると思った。読めばわかるが、『アチャス、アチャス、アチャス』というところは完全に音声だった。
 ここまで書いてきて気になったのは、ぼくが書いた文章が、読み手によっては映像として受け止められているのかということだ。どうなんですか、ぶっちゃけ。