新・小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか?

 2%さんがまとめられた要点*1はぱっと見で把握しやすいと思うのだった。いつもながら、いい仕事をしてるぜ。コメントしようと思ったのだけれど、長くなりそうだったので、ここに書くことにした。そもそも2%さんが回答を期待してトピックを書いたのかどうかすらわからないのだけれど、勝手に反応してみようと思う。しかしながら、ぼくは映像派ではないので、一部への回答になってしまいますが、あまり気にしないでください。
 決して都合の悪い部分に答えていないわけではありませんよ。ありませんよ。

 ただ、小説を読んでいるときには思い浮かべないなあ。

  • 聴覚、嗅覚、味覚、触覚、体感覚などの五感も使われ得る。
    • 身体で読むことがあります。前も書いたのだけれど、やっぱり言葉は音だと思っているので、言葉が音になり、振り付けになることがある。それは言いすぎか。でも聴覚と身体は使うなあ、たぶん。
  • 記憶の定着……文章のどの要素を、どのように、いつまで、覚えているか?
    • 印象の大きさにもよるのだけれど、かなり長い間覚えていることはある。例えば、星野智幸の「ハイウェイスター」の最後の文章なんて、一生忘れられないと思う。結びの一文は結構憶えていることが多いのではないか。
  • 創作の起点……自分で物語を作る場合に、映像が起点になるか? 読書中の映像化との関連は?
    • 起点は映像じゃなくて言葉。
  • 仮説……五感に依存する読み方をする人は、物語を堪能すること、小説世界に没入することに主眼を置いている。
    • 五感に依存しているかどうかはわからないけれど、小説世界に没入していることは否めないと思います。ガチでシンクロするときもある。青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」を再読したときは、ちょっとした神秘体験だった。
  • 仮説……五感に依存せず速読気味に読み進める人は、作品を読破すること、小説世界を征服することにエクスタシーを覚える。
    • これがちょっと理解できなかったんですが、ぼくの場合は読み終えることへのエクスタシーはなく、むしろ「あー読み終えたくねーなー。もっと続いててくんねーかな」と思ってしまうことが多い。もちろん、おもしろい小説を読んでいるときの話だ。「夜明け前のセレスティーノ」とか。また「夜明け前のセレスティーノ」か! と思っている方は多そうだが、実際そう思ってしまったのだからしょうがない。クソ小説を読み終えた達成感はありそうだけれど、読み終えることを目的とすることはないですね。
  • 結論……速読を身に付け、また映像や音声の想像にも慣れておき、状況と対象によって適切に切り換えて読み進められるようにすれば、きっと幸せになれる。
    • こんなおれでも幸せになれるのでしょうか。

 自分でも何がいいたいのかわからなくなってきたぜ。ていうか完全に自己満足だ。しかも今酔っ払っているし。だが今のおれはそんなの気にしねーぜ。