書くのか書かないのかということについて

 上手い、もしくは下手糞って、どこで決まるんだろうかと考える、文章的に。上達するってどういうことなんだろうか。結局文体が変質していっているだけなんじゃないかと思うが、まあ、それはいいとして、ぼくは他の方々のご意見を否定するつもりはなく、あくまでぼく自身の考えをここで書いているのに過ぎないということをあらためて宣言しておいてでのことなのだが、やっぱり特に意図もなくただ書くという行為には意味がないと思ったのだった。コンセプトがあるのなら、もちろん有意義なものになるのだけれど。
 ぼくがもっとも疑問を抱いているのは短期間ですさまじい量の文章を書くということだ。確か西尾維新だったと思うが、1日で300枚くらい書いたということをファウストか何かで公言していたの思うのだが、その300枚のうち、読むに耐える文章は何パーセントくらいだったのかなと単純に思ったのだった。
 ぼく自身は、ある程度の質を保つためには、1日5枚くらいしか書けないので、その価値観のもとでの雑感になるのだけれど、1日300枚というのは驚異的だと思う。読むに耐える文章を1日300枚分書けるというのは、ぼくにとってはファンタジーそのもになってしまうから、どうにもそのクオリティーを信じられないのだった。
 まあ、信じれるか否かはどうでもいいことであって、上に書き連ねたこともけっこうどうでもいいことなのだが、書き続けるだけが能ではないのではないのかということだ。ぼくは今24歳で、16歳あたりから小説らしきものを書き始めているのだけれど、どうにも書けなくなる時期というのが定期的にある。才能のある人はそんなことはないのかもしれないが、立ち止まってしまう時期がぼくにはある。今もそうだ。それはともかく、そういう時期は無理に書いてもクソの役にも立たんようなテキストオブファッキングしか生み出せなくなるというか、自分で納得できないテキストになってしまうので*1、本当にファックなのだが、ぼくのことはどうでもいいとして、そういう時期は無理に書かなくてもいいんじゃないかと思うのだ。
 インプットとアウトプットの作業を同時に進められるのが理想だとは思うが、ぼくはそんな器用な人間ではなくて、どうしても立ち止まってしまう。ひでさんは、日記を拝見する限り、そこらへんがものすごく優れた方なのだと思う。ぼくはどうしても立ち止まってしまう。デリダとかを読んで、さらに落ち込んで、チョムスキーの音声学に関する著作を読んでみたりして、余計に落ち込む。どうにもならんね。しかし、ぼくのことはどうでもいい。ぼく自身でどうにかしなきゃならんことだから。
 とにかく、ぼくは、書けないのなら、無理に書かなくてもいいんじゃないかって思うのだ。もちろん怠けろと言っているわけではなくて、インプットの作業をする時間も必要なんじゃないのかって話で、それは読む作業だけでなく、例えば映画とか音楽とか何でもよくて、Ryo-Tさんの書いている通り、考えながら取り入れるってことなのだろうと思う。ぼく自身がそう思っているだけですよ、もちろん。
 ていうか、4、5年に一作、傑作を発表すればいいんじゃないかと思っちゃうんですけどね、ぼくは。

*1:最低の時期は越えた感じはしないでもない今。