佐藤友哉

 佐藤友哉の「1000の小説とバックベアード」(新潮12月号)を読み終えたのだった。クソだった。駄作にもほどがある。本当に苦痛だった。最近思うのは、佐藤友哉本谷有希子は周囲の人間によって才人に仕立て上げられているのではないのかということだ。まあ、それはどうでもいいとして、つまらない小説だった。「誰かぼくを見てよ!」的なアピールばかりで、強度のある批評性、思想性がなく、薄っぺらい小説だった。あんたが苦しんでいるのはわかるが、そんなの読んで喜ぶのは一部のファンだけだろ、あ?って思った。
 ラノベ、もしくはメフィスト賞的ミステリの文脈で文学に言及していた頃とは違うのだろう。ひどく薄ら寒く、同じようなことを私小説のフィールドでやられてもな、と感じる。佐藤友哉っていうのは不器用な作家なんだろう。逆に舞城王太郎は器用な作家で、愛媛川十三にも『舞城君にとっても小説なんて所詮でっちあげでしょ?いつもどおり器用にこなせば?』と書かれている。誰かの評論で単行本の「子供たち怒る怒る怒る」に収録の小説は舞城王太郎の「みんな元気。」収録の小説群への返答して書かれたものではないかというものがあったと記憶しているが、両者を読み比べると器用さの差は明らかだ。
 もっとも、佐藤友哉は不器用だからこそ、愚直に小説に対峙し、こんな小説を書いているんだとは思う。しかしながら、どう好意的に解釈しても、独立した小説としての「1000の小説とバックベアード」はクソだ。佐藤友哉という作家がどういう軌跡をたどってきたかを知らぬ読み手にとっては、意味不明な散文として映るに違いない。極めて切実な小説ではあるけれど、その切実さはパーソナルなもので、現在性を帯びているわけではない。
 ていうか、結局、岡崎京子がすでに「pink」で触れたていることなんだよ。いまだにここなのかよという残念さもあった。思えば、佐藤友哉はデビュー作から3作くらいの得体の知れなさがよかったんだろう。今はダメだ。しかもどんどんダメになっていく。