国立劇場十一月歌舞伎公演

 国立劇場で「元禄忠臣蔵」を観てきた。三ヶ月連続で、全十篇が上演される。今月はその第二部。

  • 伏見撞木町
  • 御浜御殿綱豊卿
  • 南部坂雪の別れ

 中盤にあたる上の三篇が上演されている。これが実にいい芝居で、先月の第一部も素晴らしい出来だったが、今月も負けず劣らず素晴らしかった。何より役者の集中力が素晴らしい。全員が好演だった。国立劇場四十周年であることに加えて、今年真山美保さんが亡くなられているから、その追悼ということもあるのだろう。
 青果が丹念に書いただけあって、新歌舞伎とはいえども、戯曲の強度、精度がすこぶる高く、はっきりと現在性を帯びている。普遍性といってもいいのかもしれない。

至誠は第一、敵討は第二じゃ。橋本平左などにも常に言い聞かせたる通り、復讐を最後の目的としてはならぬ。故主に対する至誠をつらぬくが本来の第一義なのじゃ!
大石内蔵助(「伏見撞木町」)

吉良の生首を、泉岳寺の墓前に捧げさえすれば、内匠頭の無念、内匠頭の鬱憤はそれで晴れると思うのか。(中略) 思慮を欠き、判断に欠くるところあらば、たとえ上野介の首討っても、それは天下義人の復讐とはいわれぬのだ。
徳川綱豊(「御浜御殿綱豊卿」)

助右衛門、吉良は寿命の上、らくらくと畳の上で死んでも、汝ら一同が思慮と判断の限りをつくして、大義、条理の上にあやまちさえなくば、何アにあんな……ゴマ塩まじりの汚い白髪首など、斬ったところで何になる、そなえたところで何になる。まこと義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、汝らの本分をつくし、至誠を致すことが、真に立派なる復讐といい得るのだ。
徳川綱豊(「御浜御殿綱豊卿」)

 純粋な仇討ちのための劇として構成しなかったところに青果の洞察力が感じられるのだと思うのだが、それがはっきりとわかるのは通し狂言として上演されたときだけなのかもしれないとも思った。
 上に引用した台詞、今のラムズフェルトに聞かせたら、泣き崩れそうだ。