お待たせしました

 「エコール」を観てきたのだった。やっとだ。公開が今月の4日だから、3週間くらい経っていることになる。忙しいやら何やらで、前売りまで買っておきながら、危うく見逃してしまうところだった。シネマライズでのロードショーは12月8日までのようなので、お早めに。以下、正気を疑うくらいのネタバレ。
 上映前にパンフレットを買ってペラペラと頁を捲っていた。ぱっと見は大学ノートみたいになっていて、買う前は「こんなものが700円か」と思いつつも、あまり躊躇もせずに買ったのだが、中は劇中の写真がいくつか使われていて、その……何だ……けしからんな! 電車の中で読んでいたら、勘違いされそうじゃないか。デザインもどうかと思う。実際に手に取らないとわからないのだが、何か、もう、ひどいパンフレットだった。
 だが、パンフレットの出来、不出来は本編とは関係ない。観終わってから真っ先に思ったことは、「まっとうな映画だったな」ということだ。公式サイトからは想像もできないくらい淡々とした、静かな映画だった。上映時間121分と長くなっていることに加えて、冗長に感じる部分も少なくなく、手放しで大傑作と褒めるほどのものではないが、いい映画だった。121分という長さはあったが、飽きなかったので、それが映像の力なのか演出の力なのかはともかく、おもしろい映画だったことは確かだ。あ、映像はかなりよかった。色がいいんだな。
 特定の主人公をおかず、121分という上映時間の中で、3人の少女が順番で芯に置かれる。最初は学校(=エコール)に来たばかりの少女、次は外に出たがっている少女、そして年齢のため外に出ることになる少女だ。エンタメ的文脈から考えると最初の少女で謎を提示し、後の二人で謎を回収する、という構造であると考えることもできるのかもしれないが、この学校がいったい何であるかの説明は、仄めかされているが、明確にはない。だが、そこがいい。はっきりと種明かしされてしまうよりも、謎を残して終わる方が、この映画にはあっている。解釈としても、どうとってもいいように作られていると思う。脱走を企てて、結果死ぬ少女にしても、失敗して死んだのか、見せしめとしての死を作り出すための罠だったのか、どちらとも受け取れる。その曖昧さにも関わらず、決してファンタジーに寄らずに、リアリズムを感じさせるようになっているのは少女たちの佇まいであって、「そこにいる」のが当然であるように描かれているからなのだろうと思った。逆にそのおかげで、終盤の地下劇場から地下通路を抜けて、電車に乗って外の世界へ行く場面がやたらと幻想的に感じられる。象徴といってもいいのかもしれない。この映画には象徴というのがじつに多かった。例えば森の中の街灯だったり、世界と学校とを遮断している壁だったりする。
 三つ、印象深い場面があった。
 まずは新入りの少女(=イリス)を気に入らずにいじめる少女(=セルマ)がいるのだが、そのいじめの場面でセルマが木の枝みたいなものでイリスをぶつ。そのせいでイリスはふくらはぎのあたりから出血するのだけれど、セルマがその血を舐める場面がある。この危うさは何だ。しかも、その傷ついた足を先生に心配される場面は終盤への伏線となっていて、巧妙な場面だと思った。
 次は、「エコール」の劇中の中で最も秀逸な場面であると思うのだが、上に書いた通り、終盤になって学校に地下劇場があるということが明らかになる*1。年長の少女はそこでバレエを披露し、観客が支払うお金で学校が運営されているわけなのだが、一人の少女(=ビアンカ)が観客の一人から「ブラーボ!」と声がかかり、投げ込まれた一輪のバラを手にする。さらにその舞台がはねたあと、ビアンカは客席で観客の忘れ物である手袋を手に入れる。そして夜、ビアンカはその手袋をはめた手で自分の太ももを撫で回すという場面なのだが、ここがじつにセクシャルでよかったのだった。少女のものではなく、女のエロティシズムがあった。しかも誰かが忘れた手袋をはめることによって、その手が見知らぬ人間の手であるようにも見え、多重性を帯びていた。この倒錯したようなエロティックさは素晴らしいものがあった。
 残りの一つはすでに書いたが、地下劇場から地下通路を抜けた先に待っている電車だ。正直驚いたし、何だこの奔放さはと思った。
 俳優に目を向けると、ビアンカ役の少女がすこぶる良かった。全盛期の加藤ローサベッキーを足して二で割ったようなルックスもかわいらしいのだが、一人だけかなり落ち着いた芝居をしていた。他の子たちはどこまで素でどこから芝居なのかわからなかったが、この子だけは最初から最後まで芝居をしていたと思う。あと、姿勢がいいんだよな、この子は。うらやましいくらいのピンとした背だった。あとビアンカって名前だけで幼馴染み臭がして何か萌える。「ビアンカの秘密って何?」みたいな台詞があったが、「天空の血のことかー」と思ってしまった。あ、どうでもいいですね。
 この映画は、青春一歩前、思春期一歩前の少女たちの成長を描いた映画だ。「別れ」とか「喪失」とか「自我」みたいなものを通過儀礼的に経験していく。その経験というのが偶然訪れたものなのか、すべて学校側の手によるものなのか、どちらともいえないところが不気味な点なのだが、外に出て、噴水ではしゃぐ少女たちのイノセントさを見ていると、学校側の計算で作り上げられたものなのかしらんと思えてしまった。余談だけれど、最後の噴水前の場面は何だかダリオ・アルジェントの映画の何気ない一風景を観ているようだった。撮り方というか、色遣いというか、ぼくは映画には全然詳しくないのでよくわからないけれど、アルジェントの映画でありそうな一瞬だったように思えてならない。「デモンズ」の冒頭とか。「デモンズ」はアルジェント監督作ではないけれど。肌触りが似ている気がした。ちなみに、この「エコール」の原作を基に作られたもう一つの映画がダリオ・アルジェントの「サスペリア」である。

*1:この場合の『地下』には文字通りの意味だけではなく、アンダーグラウンド的な意味も込めて