夜明け前のセレスティーノ

 「才能」というものがあるとしたら、この小説を書いたレイナルド・アレナスはそれをたらふく持っていたのだろうと思わせるに充分な小説なのである。2%さんが最近この小説についての文章をお書きになっていて、ここぞとばかりにコメントをしようと思ったのだけれど、何だか長くなってしまったので、この日記に書くことにした。
 2%さんの感想とは異なってしまって恐縮なのだが、幻想でも比喩でもなく、この小説で描かれているのは紛れもなくキューバの寒村の現実なのだとぼくは感じた。ぼくはレイナルド・アレナスの小説を読んだのはこの小説が初めてではなくて、「めくるめく世界」を先に読んだ。それから自伝である「夜になるまえに」を読み、この「夜明け前のセレスティーノ」を読んだ。それに加えて、メキシコやキューバ貧困層についてを学生時代に学んでいたから、というか読んだのも学生時代なのだけれど、少しくらいは最下層の人間の営みを理解できていたのではないかと思う。ただその理解も平和な日本の学生としての理解だから、実際の理解には程遠い。
 この小説はリアリズムの文体で描かれているわけではないけれど、少年の目を通した現実がここにある。これは間違いない。取り囲む現実のすべてを等価値にして描かれている。幼い子供の目には世界がこう見えていたということなのだと理解した。それは認識の無秩序さでもあるし、無邪気な残酷さでもある。テリー・ギリアム監督作の「ローズ・イン・タイドランド」でも描かれていた、幼さ故の未消化の世界。それをそのまま描いたのがこの小説で、比喩でも何でもなく、じいちゃんもばあちゃんもかあちゃんも描写されるままの形で少年の目の前に存在していて、それを写実的に描いた結果、この奇想天外な幻想小説が完成したのだとぼくは考えた。ことさら幻想的に描いているのではなく、あくまで写実、少年の瞳に映ったままの世界が描かれていることは間違いない。「少年には、少年をとりまく世界がこう見えているのだ」と考えることが大事なのだとぼくは思う。「革命」というロマンティズムに溢れたキューバの現実の末端がここに、生身の少年の瞳を通して描かれたのだ。
 だからこそこの小説は驚異的であり、現代文学の最高峰に位置していると思うのだ。ラテンアメリカ文学というと、ボルヘスの「伝奇集」やガボの「百年の孤独」、イサベル・アジェンデの「精霊たちの家」が有名だろうか。その他、バルガス=ジョサの「緑の家」、ドノソの「夜のみだらな鳥」、コルターサルの「石蹴り遊び」なども有名だが、あれ、何かもう絶版っぽいのばかりですね。そんな小説群と肩を並べるどころか、頭ひとつ抜きん出ているといっても過言ではないくらいの小説であると思う。ぼくの中ではルルフォの「ペドロ・パラモ」とこの「夜明け前のセレスティーノ」は小説という分野での前人未到の到達点であると捉えているくらいだ。
 おそらく、「夜になるまえに」を読む前と読んだ後では、この小説への印象は大きく異なるはずだ。「ハバナへの旅」は後回しでも構わない。「夜明け前のセレスティーノ」、「めくるめく世界」、自伝「夜になるまえに」を読み、それからユリイカレイナルド・アレナス特集号を読めばいいんじゃないかな。ユリイカに掲載された中篇と、いくつかの詩や評論は読み応え充分である。そして、ペンタゴニア五部作の他の四作の翻訳はまだかと苛立つ日々を送るべきなのである。おれのように。いっそ原文で、とも思うべきなのである。
 ところで、「めくるめく世界」でレイナルド・アレナスはセルバンドという神父を描いた。セルバンド神父をめぐる、「こうであったという事実」、「こうであったかもしれないという可能性」、「こうであったならという願望」を一人称、二人称、三人称を使い分けることで書き上げた。はっきりいってこれも驚異的な小説である。だから2%さんは読んでみればいいんじゃないかな。かな。ガチだぜ、これも。