「飯綱颪」

 時節を逸してしまっている感が強いが、感想を書いてみようと思った。「飯綱颪」を読んで思ったのは、これはライトノベルだなということだ。多くの読み手に時代小説であるということで距離を置かれてしまうのは残念だ。この小説についての感想を書いているブログもあまりは多くはないようで、「時代劇」ということで拒絶されてしまっているのだろうか。じつにもったいない。
 読んでみればわかることなのだけれど、聞き慣れない、見慣れない言葉というのは、この小説内ではあまり使われていない。台詞だって、時代がかっているかといったらそうでもない。かなり平坦で、柔らかい。おそらくはいたずらに時代臭さを出すよりも、ポップで明快な路線を狙ったのだろうと想像した。そしてたぶん思惑通りにことは運んでいる。活劇小説と表現するとしっくり来る気がする。極めてエンタメ。やたらとキャラ立ちした登場人物、謎が提示される序盤、見せ場が続出する中盤以降、幼女萌え、後家萌え、とごちゃごちゃとオンパレード状態でお腹一杯になった。
 登場人物でいえば、おさえさんの色っぽさが最高だった。正直娘はそうでもない。磯次はいいヒールだった。改心するのかと思いきや、悪役のまま死んでいってしまった。それはそれでいいんだけど、国崩しクラスではなくてただのケチな悪党(褒め言葉ね)だっただけに、最後にはちょっといい人アピールがあるのかと思っていたのでモヤモヤしてしまった(笑)。
 不満があるとすれば、江戸の下町に生きる庶民の姿が描き出されているわけではないということだ。江戸方言や当時の流行をあまり取り入れない台詞は読みやすいが、物足りない。例えば「豪気に」「ステキに」「豪的に」みたいな程度の表現があってもいいし、「恐れ入谷の〜」みたいな駄洒落混じりの言い方を江戸っ子はよく使っていたという話だし、そういう表現がもっと頻繁にあってもいいと思った。ただそれは極めて口語的であって、芝居には向いていても、小説には向いていないのかなとも思った。ぼくは基本的に歌舞伎脳ですからね。あまり当てにしないほうがいい。
 「僕僕先生」のときは、「今でいうどこどこ」的な書き方は、ぼくが中国に全く明るくないこともあって、あまりに気にならなかったのだけれど、今回はすごく気になったのだった。いきなり「大江戸線」とか出てくると、ちょっとびっくりする。あとかっこで閉じて登場人物の心情を書いていたけれど、これも多すぎると煩わしくなってくる。語らない見せ方みたいなものは絶対あると思うし、沈黙が何よりも雄弁に語るときもある。心情をいちいち言葉にしなくても、いいんじゃないかなと思った。あまりにも明確にし過ぎていると感じた。言葉で説明しなくとも、ちょっとしたことで、極端な話たった一文ででも、気づかされる心情というのがあると思うし、特に時代小説ではあえて語らないかっこよさみたいなのはあるんじゃないかってことです。そういうのも一種のベタですよね。
 あと、書こうかどうか迷ったのだけれど、フェアじゃないと思ってしまったので一応書いておきます。この小説には大きな瑕疵があって、ことによると中盤の展開が成り立たなくなるくらいのものなのではないかと思う。でもフィクションだし、あまり気にしないぜってことで。問題はこの小説よりも、今後続編を書く機会があったとしたら、そのとき辛いんじゃないかってことだ。でもがんばってほしい。何がどう欠陥なのかっていうのは書かないでおこう。おれの胸の中にしまっておきます。筋立てとは無関係だけれど、娘が鰹について言う「初物じゃないけど」という台詞も少し無防備かなとも思った。あ、下ネタ的な意味じゃなくてですよ。
 ひでさんにはもっと日本の時代小説を書いてほしいなって思った。中国が苦手だから言っているわけじゃなくてね。この小説でいえば、店子たちの珍道中の場面がすごくおもしろかったので、五十三次ものを派手にしたような冒険活劇を読んでみたいとか、勝手に思った。これからもそこはかとなく応援しています。