運命の不可避性

 「源平布引滝」の三段目の切り「実盛物語」が当月歌舞伎座で上演されていて、僕はそれを観に行ったのだけれど、この芝居だけではなく特に時代狂言に多い、運命の不可避性を強く感じたのだった。

九郎助(亀蔵)小よし(家橘)夫婦は、源氏再興の念願かなわず命を落とした木曽義賢の妻で、懐妊中の葵御前(魁春)をかくまっています。そこへやって来たのは、平家方の斎藤実盛仁左衛門)と瀬尾十郎(彌十郎)。葵御前が産む子を検分するためでしたが、窮した小よしは赤子の代わりに、九郎助が拾ってきた白旗を握った女の片腕を差し出します。それは、実盛が斬り落とした九郎助の娘小万(秀太郎)のものでした。実盛はその時の事情を語り、小万の息子の幼い太郎吉(千之助)に、将来潔く戦場で討たれようと約束します。
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/2007/04/post_11-Highlight.html

 芝居のあらすじは上のようになっているが、ある二つの討ち死にが未来からこの芝居の登場人物を抱きかかえている。逆にいえば、二つの討ち死にから着想された芝居であるからこそ、主役である実盛と太郎吉は運命から逃れられない。
 その二つというのは、一つが斎藤実盛が手塚太郎光盛に討たれるということと、そして手塚太郎は木曽義仲と共に討ち死にするということ。この「実盛物語」はその史実、じゃなくて「平家物語」のエピソードを創作で繋ぎ合わせることによって構成されている。
 つまり、実盛が手塚太郎(劇中の太郎吉)の仇であり、幼い頃に潔く討たれることを約束していたということと、作中で太郎吉が葵御前が産む赤子(後の木曽義仲)の一の家来になること。この二つの創作が後の二つの討ち死ににつながり、手塚太郎、木曽義仲の幼少の頃の物語でありながらも実盛も含めた三人が辿る行く末が示されることになる。
 これは「平家物語」の世界を借りているのだけれど、その世界においては実盛は太郎に討たれ、太郎は義仲と共に討ち死にという事実があり、事実は事実として動かしようがないから、見物人はあらかじめ決定されたその後を劇中に垣間見ることになる。
 で、今回の「実盛物語」を観ていて、いっそうその不可避性を感じた。当代の仁左衛門の実盛が良かったこともあるが、何故だか強く感じた。この「実盛物語」を観るのは三回目くらいなのだけれど。
 定められた未来があって、逃れられないまま引き寄せられていって、やがてそれを受け入れていくというのは歌舞伎では、特に時代ものではよくあることで、例えば「吉野川」はそれが極めて強く作用した大傑作だと思う。「吉野川」については六月に観る機会があるので、楽しみなのである。