「ゾディアック」

 デヴィッド・フィンチャー監督の「ゾディアック」を観てきたのだった。

ZODIAC―ゾディアック―
http://wwws.warnerbros.co.jp/zodiac/

 いい映画だった。
 この映画について抱いた印象は文學界に掲載されている中原昌也阿部和重の対談とほぼ同じで、もっともそれは先に読んじゃっていたからなのかもしれないのだけれど、フィンチャー始まったなって感じだった。
 そもそも、フィンチャーといえば「セブン」ですが、ぼくはあまり「セブン」を評価していなくて、「エイリアン3」とか「ゲーム」もあまりおもしろいとは思えなかった。あれ? どうしてそう思ったんだろう。今見れば、また印象も変わるかもしれませんけど、まあ、とにかく昔はそう思った、
 しかし、この「ゾディアック」はすこぶるおもしろい映画だった。先日書いた通り、ノンフィクションである原作もおもしろい読み物だった。実際にあった事件であることを考えると「おもしろい」という表現は不謹慎ですけど。
 で、この映画「ゾディアック」。何がすごいかって、地味な作りになっているにもかかわらず、2時間37分を引っ張れるだけのパワーを持っていること。驚くほど時間を感じさせなかったし、むしろもっと長くてもいいのではないかとさえ思った。それは原作を読んでいたからなのかもしれないんですけど、でも、この長尺をまったく飽きさせないというのはすごい技術ですよ。引っ張っていたのはフィンチャーの演出でもあるし、役者の力でもある。
 ジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニー・ジュニア、マーク・ラファロの三人が映画のメインをはる。もちろん原作者役のジェイクが芯であることは間違いないが、ロバート・ダウニー・ジュニアとマーク・ラファロの存在感が大きく、三人が主役を張っているような印象があった。特にマーク・ラファロ中原昌也阿部和重も褒めているが、この人は素晴らしいな。サンドイッチを食べる場面と、あとその直後にポテトをぱくぱく食べる場面があるのだけれど、そこが素敵に上手かった(笑)。食べ方がいい。あと、一番怪しい容疑者の話を聞く場面ですね。地元警察の人がメインで尋問をして、マークは途中まで座っているだけなのだけれど、その佇まいというか、座っている身体から敏腕さが浮かび上がってきていた。
 ロバート・ダウニー・ジュニアはやっぱりこうなっちゃうのかという役回りではあるけれど(笑)、上手いですよ、この人は。逆にいえば、この役をここまで巧妙に演じられる俳優が他にいるのかっていうくらいに上手かった。飲み屋でジェイクが頼んだ酒に興味を示して、ちょっと飲む場面とか、ああいう細かい仕草がいいんだ、この人は。
 ジェイクもまた良い。この人の場合は、一番最初は好奇心だったのが、だんだんとゾディアックに魅せられて、憑りつかれていくような役で、結局本を出すことになるのだけれど(=原作者)、変化っていうのを上手く表現できていたと思う。「ブロークバック・マウンテン」の印象が強かったのだけれど、全然感じさせなかった。雨の中、警察署やマーク・ラファロ演じる刑事の家に行く場面の危うさですよね。素晴らしいわ。観客的には「ロバート、とりあえず落ち着け、落ち着け」って思っちゃうよ。
 この三人をメインにおいて、脇役も役者が揃っているわけですが、ジェイク演じるロバートの奥さん役であるクロエ・セヴィニーが一種の抑制となっているというか、ゾディアックに魅せられない、一歩距離を置いた一般人代表みたいな感じで登場していて、一般人だからこそ抱く不安や恐怖みたいなものは、たぶん彼女の役がたった一人で抱えていて、完璧でした。いい女優だわ、この人。
 と、役者について書いてきましたが、フィンチャーの演出というか、描き方がまたいいんですよ、この映画。まず目につくのがゾディアックによる殺しの場面の残酷さだと思うのですけど、目を背けたくなるくらいにはっきりと映像にしている。銃で撃って一度去ってから戻ってきてまた撃つとか、ナイフでメッタ刺しにするとか、ぼくは原作を読んでいたから殺人がどう行われるかというのはわかっていたけれど(生存者がいるので詳しい状況がわかっているのです)、正直キツかったですね。実話だってことをわかっているからこそ怖いんですよ。例えば「ギニーピッグ」なんて、怖さなんて全然ないんですけど。
 もう一つはかなり抑えた演出になっているというか、地味なんですよね。意図的に盛り上げようとする場面がひとつだけあるのだけれど、それを除けば全編を通して地味な出来になっている。要するに、殺しが描かれるのは序盤だけで、中盤以降はゾディアックを追う人間のドラマになっているということ。丹念な演出と俳優の芝居で素晴らしい出来になっているけれど、娯楽として盛り上げる場面はほとんどない。先に上げた一箇所だけ。これは被害者がいるということ、そして実際の事件を追ったノンフィクションの映画化であるということを考えると誠実な態度だと思った。まあ、先に上げた一箇所があるのはしょうがないですよ。あれは犯人は誰かということに露骨に繋がるというか、フィンチャーの視線を入れるところだから。
 抑えて撮ったなあというのが印象として大きいです。そして、抑えたにもかかわらず、150分以上の長尺を飽きさせず見せる力。これがフィンチャー始まったなと思った理由です。いい映画だった。映像もさることながら、音楽もいい。いい選曲と音響。ケチをつけるところがあまりないや(笑)。
 ただ、この映画は謎解きではなくて、ゾディアックを追い、憑りつかれた男達を描いたものであると思うのですよ。中原昌也の言葉を借りれば『結局ある意味敗北者の話』ですよ。犯人が捕まっていない上に、犯人を追った記者は人生を狂わされ、刑事は失脚させられる。ゾディアック事件をまとめた本は出版されたが、最も怪しい人物は死亡し、DNA鑑定ではシロとなる。事実だけを並べれば、主役の三人はつまるところ、ゾディアックに敗北している。もっとも、原作者であるロバートがいなければ、この事件はもっと謎めいていたのだろうけれど。
 あ、前の段落で触れましたが、DNA鑑定で否定されたという事実が最後に提示されることによって、フィンチャーの意地の悪さというか(笑)、スタンスみたいなものがわかるという仕掛けはおもしろかったです。そこにはフィンチャーの推理みたいなのもあるし、フィンチャーの説はこういうことかっていうのもよくわかった。やっぱりスタンスですよね。映画にするという時点でフィンチャーが真摯にこの事件と向かい合って、結論を出したっていうこともこの映画にとっては大きいことだと思う。それが正解かどうかはともかく、原作者も言っている通り、この事件について考える人がいるということは大事だと思うし、ノンフィクションを映画にすることの意義がそこにある。事実がどうであるかどうかはまた別の問題だ。
 長々と書いてしまって何だかよくわからなくなってしまったけれど、とにかくいい映画だった。見ようかな、どうかな、と迷っている人がいたら、見るがいいよ。ぼくは堪能しました。ただ、謎解き、ミステリとして見てはいけないと思う。演出はともかく、ゾディアックに魅せられ、破滅した男たちのドラマとして、この映画はあるのかなと思った。パンフレットに掲載されているマーク・ラファロの言葉から感じたことなのだけれど。
 つまり、まだ終わっていないということ。