エレンディラ

 さいたま芸術劇場で蜷川幸雄演出の「エレンディラ」を観てきた。ご存知の通り、原作はわれらがガルシア=マルケスだ。
 ガルシア=マルケスの小説を好んで読んできたぼくにとって、この舞台は楽しみであり、不安でもあった。音楽劇という形式は井上ひさしの多くの芝居で目にしているから違和感はなかった。しかし、やはり途方もないガボの小説世界をどう舞台に立ち上げるのかという疑問はあったし、陳腐なものになるのではないかという不安は大きかった。
 しかしながら、「ある程度はまんま提示する」というNINAGAWAらしいスタイルが序盤の強烈なビジュアルイメージを生んで、幕開けからしばらくは悪くはなかった。エレンディラの祖母の屋敷を歩くダチョウの姿は平然とした世界の様子を表しているようで、とても良かった。
 また、祖母役の瑳川哲朗さん、エレンディラ役の美波ちゃん、ウリセス役の中川晃教さんの好演もあった。特に瑳川哲朗さんの祖母は素晴らしい出来だった。物語上では敵役めいた部分のあるのだけれど、決して憎めない、それどころか悲しみと哀れさと滑稽さで満たされたような孤独の姿を体現していた。孤独っていうのはガボ小説で繰り返し描かれるモチーフであって、瑳川哲朗さんの身体はまさに孤独だった。すごかったぜ。
 エレンディラ、ウリセスの二人は技術よりも熱情が先行するような芝居で、特にウリセスは以前観た藤原竜也のロミオを思い起こさせた。若い役だから、それでじゅうぶんだった。エレンディラは、劇中でヌードになっていることが話題になっていますが、もちろんそれだけではなかった。良かったのは存在そのものの美しさだったと思う。そこにエレンディラがいると思わせるにじゅうぶんな綺麗さだったし、それだけで芝居を成立させていたのではないかと思った。身体の力はやっぱり大きいよ、せりふ術なんかよりも。
 と、役者はがんばっているのだけれど、芝居自体はどんどんダメになっていく。というのも、二幕、三幕と進むにつれて、脚本のクソさが増していくからだ。「エレンディラ」という小説を書いた作家を登場させて、劇の枠組みをひとつ増やしてしまう三幕目に至ってはもう愚の骨頂で、原作の魅力だけでなく、今までやってきた芝居そのものをスポイルさせてしまっていた。
 ウリセスによる祖母殺しがエレンディラによる妄想で、実際はエレンディラ自身が祖母を殺め、ウリセスとは買っていた白孔雀の名前だったという解釈についてはそういう考え方があってもいいとも思うけれど、中途半端なミステリ仕立てにして、その解釈をことの真相として役者にまんま喋らせるというのはどうだろうと思った。論文じゃなくて演劇なんだから。一から十までを説明するのではなくて、ちょっと匂わせるだけでじゅうぶんだったと思った。演劇としておもしろくないし、がっかりした。あと、あれですよ、やっぱり9.11とかイラク戦争を絡めるんだなってこと。ああいうことされると冷めるわ。フォルクローレであるということをもうちょっと意識して欲しかった。
 他にも、例えば幕切れで永遠と一瞬について描かれるけれど、ガボの小説の特徴というか魅力は時間の流れが一定でないというところであるのではないかと思っているぼくにとっては違和感そのものだった。あと、言葉の使い方も。
 ナイマンの音楽は良かったし、空間を作り出す照明がまた素晴らしかった。脚本ばかりが残念だった。