ここ3ヶ月くらいに観た映画について、だらだらと書いてみよう。

 「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」を観た。スピルバーグの新作とあらば観ないわけにもいかないのだが、大作映画につきものの「まだしばらくはやっているだろうから、今日はこっちを優先しよう」という考えのせいでなかなか観に行けていなかったのだった。が、やっと観られた。
 この雑文は「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」を始点として、ここ3ヶ月くらいに観た映画についていろいろとだらだらと書いています。以下、「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」、「ミラクル7号」、「コロッサル・ユース」、「イースタン・プロミス」、「REC」、「幽霊屋敷の蛇淫」、「夜よ、こんにちは」等々のネタバレを含みます。


 「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」はとても良い娯楽映画でした。これが「プライベート・ライアン」のカミンスキーによる撮影だと思うと驚いてしまうが、映画自体はおもしろかったです。インディ・ジョーンズらしい無茶苦茶な感じはあったし、昔からさほど変わっていない雰囲気に安心した。最後SF入っていたのには違和感がありましたが。
 何より最初、インディが出てくるところ。帽子が地面に落ちて、それを拾って被ったシルエットが車に映る。そしてハリソン・フォードへのアップへ、というところがいかにもヒーローの登場シーンで、ここで安心できた。これはもう大丈夫だと(笑)。


 似たようなことはつい最近観た「ミラクル7号」でも感じた。チャウ・シンチーの登場シーンでまず足から映る。クリント・イーストウッドの西部劇でもそんな感じだし、そういうところがスーパースターの証なんだろうなと思う。例えば今月歌舞伎座で上演されている「義経千本桜」の序幕「鳥居前」で狐忠信が登場する場面も、まずは揚幕の向こうから「待て、待てえ」と声だけが聞こえる。少なくとも全身は見せない、というのがヒーローの登場シーンの基本としてあって、それをしっかり抑えているとなんだか安心できる。
 「ミラクル7号」のチャウ・シンチーはその後、建設中のビルのてっぺんに座って弁当を食べる。この映画でのチャウ・シンチーは貧乏な労働者の役なんですが、その貧しさを生きる男がやがて資本でいっぱいになるであろうビルのてっぺんに座って弁当を食っているという構図はいいなと思った。シンチーの意志みたいなものがにじみ出ている気がした。
 ただ「ミラクル7号」は闘争の映画ではなく、基本的には貧しい親子の情愛を描いた小品でした。「少林サッカー」や「カンフーハッスル」のような派手さは一部にはあるものの、基本的には人情喜劇です。宇宙人が出てきたりしますけど。こういう映画も手堅く作れる人なんですね。
 ぼくはチャウ・シンチーの映画は好きですが、考えてみるとそんなに多くを観ていないのでした。前述の2作と今作、あと何かしら観ている気がしますが、題名と内容が一致しない。だからシアターNであった香港映画の特集は観に行きたかったんですが、運悪く「かもめ」の公演と重なってしまってどうにも無理だった。喜重特集もあったし。残念だった。
 この「ミラクル7号」に作家性を感じたのは、チャウ・シンチー演じる父親に終始影がつきまとっているからなのでした。主人公は父親ではなく息子で、宇宙犬(?)のナナちゃんとの交流と別れがほのぼのと、ときおり過剰に描かれるわけですが、チャウ・シンチー演じる父親にはずっと影がさしていた。チャウ・シンチー特有の愛嬌でそれほど強くは出ないものの、どこかに暗い過去とかそういうのがにじんでしまっているんですね。そこが印象深かった。この父親は後半で事故に遭うんですが、そのシーンの撮り方も含めて。子供向けという位置づけでは決してないぞと感じた。


 ところでスピルバーグの映画は、特にここ最近はどちらかというと暗い映画が続いていたし、スピルバーグ本来の作家性はそこなんだろうなと思っていて、今回シリーズの新作はどうなの?と思っていた。でも観てみると痛快な娯楽活劇に仕上がっていて、この明るさに逆にとまどってしまいそうだった。KGB共産主義、あるいは水爆実験といった要素がフィルムに決定的な影を落とすことはなかったし、またケイト・ブランシェット演じる悪役もどこか憎めない雰囲気があったし。
 本編中不穏さを出せそうなのは水爆実験のための町のシーンだと思うんですが、そこの描写もあっさりして、目線はインディがどうこの困難を克服するかという方に向いてしまう。いやそれでいいんだけど。ただあの街並みが一瞬ぼくに「ヒルズ・ハブ・アイズ」を思い起こさせて、もしかしたらと思ってしまっただけなので。


 明るさが不気味さを産む場合もある。ペドロ・コスタ監督作「コロッサル・ユース」で映し出される集合住宅の壁の白さにはどこか不気味さがあった。それは前作の「ヴァンダの部屋」を観ていたからなのかもしれない。破壊されたスラムの跡に建てられた集合住宅に希望はあるのか、そんな考えを持ってしまった。
 結論として、希望はあるのだと感じた。「コロッサル・ユース」では「ヴァンダの部屋」においてまさに解体されつつあるスラムに住み、ヤク中だったヴァンダが一児の母となっている。ラストシーン、その子のかたわらで眠る主人公ヴェントゥーラ。その画面の穏やかな静けさにぼくは希望を感じた。
 「コロッサル・ユース」で起こるのは冒頭、ヴェントゥーラの妻クロチルデが家財道具を投げ落とし、家出するということだけだ。そして映画はクロチルデの帰還を待ちながら、子供たちとの対話を続けるヴェントゥーラのさすらいが描かれる。その中で生まれていくヴェントゥーラと他者との関係は、破壊されたスラムの空間の中にあった人々の生命が再生していくようでスリリングだ。彼らの存在はどこまでもたくましい。そしてヴェントゥーラの手紙の言葉の美しさ。
 轟音に包まれたような「ヴァンダの部屋」と比べ、「コロッサル・ユース」はとても穏やかな映画だ。その中に強い意志や力がある。そこがぼくはとても気に入ったし、今年観た新作映画の中では一番だった。もう1回くらい観たいと思っていたが、東京での上映は明日まで。しかも最終上映は夕方から。仕事なので行けません。オウフ。


 そういえば「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」ではグロ描写があまりなかったなと思った。前三作では心臓を取り出したり、人が溶けてしまうような場面もあったが、この新作ではグロ描写は皆無だった。死体やミイラを包む布や袋を開ける場面は「うわっ」と思ったが、実際はそうでもなかった。死体が崩れるところも、モロにはいかなかったし。
 「まあ、この程度でいいだろう」というのがスピルバーグの中にあったのだろうかと考えた。「プライベート・ライアン」を観ればわかるとおり、やろうと思えばいくらでもひねり出せる監督なのだから、意図したものなのだろう。カミンスキーのカメラがなんか普通なのもきっと。「これくらいでいいだろう」というのがあったんだろうなあ。


 クローネンバーグが「これくらいでいいだろう」と思ったかどうかはわからないが、「イースタン・プロミス」の格闘シーンの素晴らしさといったらなかった。この映画は終始静かで、でも踏み外すと即死亡といったすれすれの状態で進行するが、唯一終盤にあるサウナでの格闘シーン(ヴィゴ・モーテンセンがフルチンで立ちまわっているのが話題のシーンです。)でぐっとアクションが凝縮される。
 「ヒストリー・オブ・バイオレンス」はコミックが原作というだけあって、本編中に何度もアクションがあったけれど、「イースタン・プロミス」はサウナだけ。丹念に積み重ねる演出の先、そこにすべてを詰め込んだといってもいいくらいの良いアクション。最高でした。CGとかVFX全盛の時代だからこそ、俳優の身体が躍動するアクションシーンに痺れます。本当に素晴らしいシーンでした。本気で痛そうだったし。何しろ急所が丸出しなんだから、そのストレスといったらないだろう。まあ、それはともかくも「イースタン・プロミス」は期待通りの快作だったのでクローネンバーグファンはひと安心です。興行的にもけっこういいみたいだしね。
 ストーリーも良く、最後赤ん坊を殺せずに泣きべそをかいているキリルがいて、そこに希望を感じた。これオリジナル脚本なんだっけ。すごいな。クローネンバーグの丁寧な人物描写があってのものなのだろうけれど。こういうのを見てしまうと、「ミスト」はもうちょっとどうにかならんかったのかと思ってしまう。ぼくが好きなのは、例えば「夜よ、こんにちは」みたいに、現実は絶望的で陰惨な結果になったけれど、もしかしたらこうなっていたかもしれないという希望を映してくれるような、そんな映画なのかもしれない。


 じゃあ「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」はどうなのか。まあこれは冒険活劇だし、ヒーローの登場に喝采し、悪役と対峙すれば手に汗を握り、カーチェイスに興奮する。どんどこ進むので暗号めいたものの謎解きはインディに任せる他ないが、エンドロールが始まればきっとこう思うだろう。「あーおもしろかった」。
 ところで「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」でケイト・ブランシェットが演じている悪役は超能力研究をしているんですが、それはたぶん霊的国防なわけで、そんな人物が登場する映画が高橋洋監督作品「狂気の海」とほぼ同時期に公開されていることにちょっと驚いた。
 映画を観終えた後にユリイカスピルバーグ特集号に掲載されているハスミンと黒沢清監督の対談を読んで、最後ハスミンが「スピルバーグイーストウッドゴダールが出演するインディ5を撮るべきだ。そのとき助監は黒沢さんで」と言っていて噴きそうになったんですが、もし実現するとしたら、脚本には高橋洋氏が参加して欲しいなと思った。


 「REC」はPOV形式の映画の中ではかなりいい出来だったと思います。いたいけな幼女がママンを噛むシーンは「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」のオマージュだろうし、ゾンビ化した人の動きが早い気もしましたが、おおむねおもしろかった。撮影者がプロのカメラマンというところもいい妥協点だったと思うし。
 あと、テレビ局の取材という設定になっているので、女性レポーターの使うスペイン語が発音も含めてわかりやすく、字幕なしでもだいたい理解できるくらいだった。けっこう作り込んでますよね、これ。
 最後になって宗教がらみになるのは高橋洋的主題なのかもしれないと思った。


 そうそうぼくは早いゾンビというものが嫌いで、やっぱりのっそりのっそり歩いて欲しいものです。ロメロの「ゾンビ」が根っこにあるものだから、どうしてもそう思ってします。「28日後……」は苦手です。
 ボリス・カーロフの「フランケンシュタイン」で死体はゆっくり歩くものだというセオリーが生まれたと思うんですが、それが何気なく守られていると嬉しくなる。最近「幽霊屋敷の蛇淫」を観て、クライマックスでゆっくりと主人公を追う幽霊たちの動きがのろいのを見て、「あー、そうだよ、これなんだよ」と思った。幽霊といっても生身の俳優が普通に演じているので、あるいは死者と言った方がいいのかもしれないですが。
 他にも例えば初めて幽霊が映って、ドアが閉まるまでをワンカットで撮っているところに感心した。あのカットは素晴らしかったなあ。ストーリー的にも映像的にも完全にぼくのストライクゾーンだった。観られてよかった。
 黒沢清監督のホラー映画ベスト50を元にした「映画はおそろしい」というDVD-BOXが紀伊国屋から2つリリースされていて、この映画はそのアントニオ・マルゲリーティ篇に収録されています。最近、単品でもリリースされました。紀伊国屋レーベルは本当いい仕事していると思う。第3弾があればいいな。


 なんか本当だらだら書いてしまったが、オチはない。インディ・ジョーンズはおもしろかった。おしまい。