川上未映子の『ヘヴン』
群像8月号に掲載の「ヘヴン」を読んだ。川上未映子作、400枚。題名とあらすじにちょっと惹かれて。
考えてみれば、文芸誌を買って読むのはひさしぶりだなと思った。
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激しいいじめを受けている少年と、やはりいじめを受けている少女との交流を描いたもので、一応は青春小説になるのかな、まあそんな感じです。
主人公の少年の内面が延々と描写されたり、少年と少女、あるいはいじめっこグループの中ではないけれど、遠くない位置にいるクラスメイトとの対話が長かったり、説明的だったり、そういうところにはどうにも不満を感じてしまう。もっと短くできたよなと思いながらも、主人公と百瀬の対話にはいじめに対するわざとらしくない真理があったようにも感じたし、無駄ってわけでもないよな、などと。
それよりも少年と少女が通い合うところにリリカルさがあってよかったよ。失望に立脚した関係だからこそ、この美しさが出るのかもしれない。
「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。
「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」
そしてまだうっすらと涙のたまる目をほそめてにっこりと笑って僕を見た。
「君の目がすきだよ」
遠山智子監督の「よるのくちぶえ」にも「お前の目が好きだよ」みたいな台詞が、こっちは冒頭にあって、目が好きだよって流行ってるのかななどと思いつつも、上に引用した部分はかなり良いと思った。あと髪を切らせるところとかも好きだなあ。
何らかの理由によって(あるいは理由もなしに)虐げられている少年少女っていうのは、小説なり映画なり芝居なり、これまでも数多く作られてきているんじゃないかと思うんですが、読み終えた後に浮かんだのは若松孝二監督の「ゆけゆけ二度目の処女」でした。
あの映画にもやはり現実から虐げられているような少年少女が出てきて、心を通い合わせる。二人の孤立は屋上という舞台設定が端的に表していて、そこを中心とした二人の交流が詩情たっぷりに描かれるところにぼくは惹かれるんですが、それはともかくとして、屋上以外の場所―少年の部屋、地下、砂浜―には失望しかない。「ヘヴン」の場合だと、主人公同士が続ける手紙の交換や、時折二人が会う瞬間以外はつらい現実として設定されていて、似ているというか、共通するものを感じた。
ただ決定的に異なるのは結末で、以下両作の結末に触れますが、心中という形で解放される「ゆけゆけ二度目の処女」に対して、「ヘヴン」では何の救いもないような結末が訪れる。いっけん後味が良さそうに書かれているんですけど、斜視の手術をして、いじめられっこの少女を永遠に失い、おそらくいじめっこたちにはしかるべき罰が加えられた後、少年に目の前にあるのはノイズが失われた、ニュータウン的な世界にしか思えなかった。母親との関係、医者との関係が気味悪いくらいに円滑になっているし、最後の段落で美しい美しいと繰り返すのは美しくないってことを認めまいとしているように感じた。「向こう側」っていう言い方がね、なんとも。本紙目次にも「風景」って言葉が使われているし、風景論的な意味合いがあるのかもしれない、最後は。
現実への鬱屈したものを解き放って死んでいった「ゆけゆけ二度目の処女」の二人とは違い、残酷さを受け入れて生きていかなくちゃならないというのが当世なんでしょうかね。そんな文字通りきらきらしたものを描こうとしているわけではないと思うんだけど。うん、やっぱり後味悪く感じる(笑)。
終盤にこんな一節があって、
なにかに意味があるなら、物事のぜんぶに意味はあるし、ないならぜんぶに意味はない。だから言ってるだろう、けっきょくおなじなんだって。僕も、君も、自分の都合に従って世界を解釈してるだけなんだって。その組みあわせでしかないんだって。こんな単純な話もないじゃないか。だからちからを身につけるしかないんだよ。相手の考えかたやルールや価値観をまるごとのみこんで有無を言わさない圧倒的なちからをさ。
批評家の人をディスっているように思えて、ちょっとニヤニヤした(笑)。中原昌也さんがあんなの椅子取りゲームだよ、みたいなことを仰っていたのを思い出しちゃった。
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