私は音楽。ジャンルは増村保造。

 今年の異形特集@シネマヴェーラは、観たい映画はほとんど消化できたので大変良かった。この特集の最後に観たのが増村保造監督の「音楽」でした。最終日の最終回。

音楽 (新潮文庫)

音楽 (新潮文庫)

 この映画の原作は三島由紀夫でまずそこからなんですけど、観る前に原作を読んでみたんですが、これが読み易くてびっくりした。三島由紀夫の小説の中でも屈指の読み易さというか、どうしたんだ!と思ってしまうくらいすいすい読めて、2日で読み終えてしまった。
 殺人が起こるわけではないけれども、女の不感症の原因は何かという謎を中心に置いた作劇はミステリ仕立てで、ここが読み易さを生んだのかなとも思いましたが、もう1点あるとすれば、語り部精神科医で、明晰な態度でもって女を分析しながら物語られていくところがわりと現代の、例えば舞城王太郎とか、自己言及とか他者や状況の分析を執拗に繰り返しながら物語を前に進める態度と似ていて、そこにも親しみがあったのかもしれないです。もっともぼくはそういう説明的なものは最近はあまり好みではないんですが、この小説は三島の例によって流暢な語り口がうまく馴染んでいたのかな、なんて。
 そして増村保造監督の映画「音楽」になるんですが、かなり歪な映画だと思った。例えば「盲獣」だと異様な設定とインパクト大の美術のおかげで異常さが、これはこの人たちにとっては普通のことなんだと思えるくらいに昇華されていて、ある意味スッキリした映画ではあったと思うんですけど、「音楽」は不協和音だよなと思った。「盲獣」の、市井の人間には理解できないけど、なんかすごい原理が作用していてその結果男と女が真実求め合っている、という状況は好きです。あと千石規子さんがめっぽう怖くてとても良い。
 「音楽」で鍵になるのは、女=麗子をどう演出するかということだと思うんですが、三島由紀夫は聖女であり売春婦でありみたいな女性像を作っていて、これは三島作品にはよくあるパターンだと思うんですけど、だからこそ劇中で音楽が聞こえてくるところに崇高さがありました。それを生むきっかけが近親相姦だというところが清濁合わさっていていいと思うんですが、映画の方だとそううまくいっていなくて、それは演じる黒沢のり子がテンションでガンガン押してくるからだと思った。
 「人妻集団暴行致死事件」を見る限り、そういう演技しかできないというわけではないから、増村の演出なんだろうと思いますが、最初の方は見苦しさを感じるくらいで首を傾げてしまいました。大島渚の「愛の亡霊」で後ろめたさをむきだしにしてくる吉行和子と似たものを感じましたが、ともかく、ミニスカの衣装も含めてどうしてそう攻撃的なんだと。
 ただこれが例えば若尾文子だったら、原作通りの造形でいけたのではないかと思うし、黒沢のり子だからこそ、この演出プランにせざるをえなかったのかなんて思います。原作通りだと無理があるから。もちろんぼくは原作通りにやれと思っているわけではなくて、映画的におもしろくなるんなら変えてしまって全然OKだと思います。ただこの映画だと黒沢のり子の魅力があまり出ていないように感じた。「人妻集団暴行致死事件」の薄幸な感じは好きだったんだけど。向こう岸には行けずに、あくまで日常の中でもがいている。というのは合っていないかな。
 謎なのは精神科医役の細川俊之で、なんでそんないちいち威圧的なのと笑いそうになってしまった。精神科医なんだし、もっとソフトなアプローチをしてもいいんじゃないかと思うんですけど(笑)。ただね、細川俊之の2枚目っぷりとかいい声とかが、これでもいいのかなと思わせてしまうところがすごい。さすがはワールド・オブ・エレガンス。
 でも女が日記に診察でエロいことをされてると嘘を書き、彼氏が殴り込んでくるところはどうかと思うぞ。原作では精神科医がカルテを特別に見せて、彼氏を納得させるんだけども、映画では細川俊之はほとんど説明しない。

「彼女の不感症は私が治す!」
「せ、先生!」

 最終的にこんな感じのやりとりになるんですけど、彼氏も納得するのはえーだろとかツッコミそうになった。しかも彼氏を演じるのはモロボシダンこと森次晃嗣なのである。だからどうってこともないか。
 序盤の見せ場は、女が瀕死の婚約者の手を握ったところで音楽が聞こえ始めるというところで、上にも書いた通り崇高な場面になっていて、たぶん三島的にはクラシックとかそういう音楽をイメージしているんだろうと思うんですが、映画の方は瀕死の婚約者役が三谷昇だからか、手を握るどころかネクロフィリアに走りそうになるからか、フリージャズかノイズ音楽が似合いそうな感じで、ここが三島と増村の違いなんだろうなあと思った。同じ東大卒のインテリのくせに。ただ映画の方はこの場面は見せ場じゃなくて、あっさり終わっちゃうんですけど。
 展開としては小説とほぼ同じなんですけど、聖女のイメージを見せてくる三島に対して、黒沢のり子は情念の人で、しかも自分が何を欲しているのかよくわかってない、もしくはわかってるけど認めたくないというところが決定的な違いなのかな。
 結局、兄との近親相姦の記憶が彼女に不感症を生じさせていた原因だということがわかり、兄に会いにいくのがクライマックスなんですが、ここでも原作との差があってちょっと感心した。三島の小説だと落ちぶれに落ちぶれた兄を描くために、山谷のドヤを舞台にして、精神科医たちにわざわざ変装までさせている。これは三島の美意識というか、品位みたいなものが、底辺を描くためにはここまで準備せねばと思わせたんじゃないかと思います。兄貴は大久保かどこかに住んでいたけど、引っ越したみたいな設定もあったはず。
 映画はどうしたかというと兄は引っ越しておらず、近親相姦が行われた部屋のまま。飲み屋の屋台一台を画面に出すだけで、兄者の落ちぶれた生活を見せてしまった。このあっさり、かつはっきりしている作りは好きです。シンプルなのがいいよ。三島のもたつきとは対照的だった。兄を演じるのは高橋長英。今回の異形特集では高橋長英がけっこう印象的でした。
 彼女の不感症の原因は何だったのか……?というのは映画を見るか、小説を読むかしてもらうとして、結果的にそれなりに面白い映画ではあったけども、増村作品としては普通くらいの出来なのかなーと思います。もっと突き抜けてるのは増村作品かなーと思うので。精神科医語り部のせいか、理屈が先に来ちゃってる気がします。
 ただ三島/増村の違いがやけにおもしろかった。「これはそうじゃないんだよ、増村さん」、「三島くん、まだまだね」などと言い合ってそうな気がします(笑)。
 それにしても衣装はどうにかならなかったのか。特に不能の青年に声をかけるシーンのミニスカートは趣味悪いと思うんだけど。でも最近大島渚の「少年」を観たんですけど、小山明子の衣装のひどさといったらなくて、上には上がいるものなんですよね、何事も。小山明子さんがインタビューで「気分が悪くなった」と言っているのが泣けてきます。大島渚も「小山明子は嫌がってた」みたいなことを言っているし。そりゃ嫌だろう、あの衣装は。大変な仕事だよ、俳優って。