TIFF2009「怪奇猿男」/「麻瘋女」

 上海の奇才馬徐維邦(マーシュイ・ウェイパン)の映画を観るのは初めてのことで、でも高橋洋さんの「映画の魔」に馬除維邦作品に関する評論が掲載されているのでその存在は知っていて、今回の映画祭でキム・ギヨン作品と同じくらい楽しみにしてました。以下ネタバレありで。

映画の魔

映画の魔

 感心した、っていうと偉そうなんですけど、「麻瘋女」なんですよね。キム・ギヨンの「玄海灘は知っている」も驚愕の作品ではあったんですが、今回の東京国際映画祭で一番感銘を受けたのはこの映画でした。といっても全然観てないんですけどね。スコリモフスキ作品は全く行けなかったし。
 ハンセン病を扱った映画で、まだ原因や治療法が不明な時代が舞台に設定されているのでヤバめの描写が多くて、おいおいこれ大丈夫なのかよってちょっと心配になった。でもいい映画。
 簡単にストーリーを説明しておくと、伯父を訪ねて旅を続ける青年が主人公なんですが、路銀が尽きて物乞いになっているところ、たまたま伯父の知り合いに巡り合い、伯父がすでに亡くなっていることを知らされる。伯父の骨を故郷まで連れて帰るという青年に感動した伯父の知り合いは青年をある金持ちの娘の婿に推薦する。青年は故郷に帰らなければならないため断ろうとするが、娘の美貌に惹かれ、さらに三日経ったらとりあえず故郷に帰ってよいという話もあったので、結婚を承諾する。新婚初夜、娘は衝撃の事実を告白する。この地方の娘はみならい病で、適当な男をつかまえて病気を移してから、正式な結婚をするのだと言う。驚いた青年は故郷に帰らねばならない理由を語り、娘は青年の誠実さに胸を打たれる。一方の青年も、らい病を移す風習を好まず、二人の夫を持つつもりもないと言う娘の性根に心底惹かれ、二人は愛し合うようになる。三日が経ち、青年が旅立つ日がやってくる。病気が移ったことにしておくため、娘は青年に首やらに口づけをし、らい病の症状に見せかける。こうして青年は故郷への帰路へつく。一方の娘はついにらい病を発症、病気を移さなかったことを一族に知られ、隔離施設に送り込まれる。そこで苛め(ってほどでもないか)を受けながらも、一人の女と仲良くなり、脱走することに成功する。そして彼女は物乞いにまで身をやつして旅を続け、ついに青年と再会する……。
 長くなりましたがこんな感じのストーリーで、感心というか感動したのは、純愛メロドラマで押し切っているというところでした。いつ怪談もののダークサイドに堕ちるのかとヒヤヒヤしてたんですが、全然そんなことはなくて、再会した青年は女のことを忘れてはおらず、婚約を破棄し、科挙の試験を先送りにしようとしてまで、女を看病しようとする純粋さ。そんな青年に、女は「私のためのそこまでしないで」と懇願するし、この人たちはどうしてこんなにも想い合えるのかと目頭が熱くなりました。
 たぶん今同じシナリオで作っても、何やってんだと感じるんだろうけども、70年前の1939年に制作され、加えて時代がかっていることが成立させているのかもしれません。あるいはショットショットの力強さとかもあって、まあ青年が継母に苛められるシーンの素舞台というか、ノー美術で芝居してるっぽいところはともかくも、なんか強烈だったなー。
 あとやっぱりミュージカル的な部分に目が行きます。冒頭、物乞いになった青年が歌うところはわりと聴かせる感じだったと思うんですけど、農夫っぽい人たちが地面掘りながら麻瘋が出たら一族郎党おしまいだ〜みたいな歌を歌うところとか、あと物乞いになった娘が顔が爛れて云々みたいな歌詞の歌を歌いながらずーっと歩いていくところとか、すごかったですよ。ミュージカルシーンって観客がうっとりするものなんじゃないかと思うんですが、歌詞にインパクトがあって、でも本人はクソマジメに歌ってるっていうギャップが恍惚を生むことを拒絶してました。しかも娘さんが歌いながら歩くところは、途中までは街中を歩いているんですけど、その場に居合わせた人が娘をすごく気にしててジロジロ見てるんですよね。ゲリラ撮影に居合わせた人、みたいな動き。スタジオだろうから、そんなはずはないんだけど。ぼくはミュージカルをほとんど見ないのであれなんですが、歌っている人があんなにジロジロ見られることってないと思うんだけどどうだろう。もちろん、らい病の女が歩いてることに通行人が反応を示しているという演出かもしれないし、ていうか今思うとそれっぽいけど、映画を観ている間は変なミュージカルだなーとくすくす笑いながらも居心地が少し悪かった。
 そうだ。録音。これも全然詳しくなくてあれなんですけど、この映画って台詞と音楽がかぶらないんですよね。音楽がいい感じに流れてても、台詞の直前でブチッと途切れる。台詞と音楽が同時に出てなかったと思います。台詞は同録で、台詞がないところに後で音を入れたのかな、よくわからないですけど。ちょっと気になりました。
 結末は麻瘋女の病気が毒蛇のだし汁で完治するハッピーエンド。ご都合主義といえばそれまでなんですけど、むしろ清々しくて好きです。美男美女が綺麗な景色の中で肩を合わせて佇んでいるカットで終わるんですが、ここら辺アメリカ映画の影響がかなりあるんじゃないかなと感じました。僕は好きです。いい映画だったと思います。ここまでまっすぐなシナリオを成立させるのは難しいと思うんですが、見事だったなあ。
 カチンコ打ってるところをカットしていないのには笑った。なんなんだろう、この大らかさ。ああいいなあって思っちゃう。


 この「麻瘋女」の前に「怪奇猿男」が上映されました。1930年制作のサイレント映画。こっちもおもしろかったです。美女を抱えて歩いていく猿男、人骨が転がっている地面、という場面の後に馬と馬車が走っていく場面になる冒頭からしてふるっていました。馬車に乗っているのが監督本人というのがちょっとおかしかったんだけど、それはともかく、馬の走りのスピード感と迫力が痛快で、あー活劇だと感じた。観る前は変な怪奇映画なのかなと思ってたんですけど、いい意味で期待を裏切られた感じ。犯罪映画だったんだね。
 おもしろいはおもしろいんだけど、尺の割には長く感じたことがないわけでもないです。登場人物が見た目でわかりやすいのはいいし(でもかなり意表をついたオチがつくんだけど。)、一本調子なんだけど猿男のアクションは悪くないんじゃないかとか思えるんですけど。
 そうそう猿男の動きがね、一人で歩いているときはゴリラっぽいふりがついているんだけど、格闘になるとモロ人間の動きなんだよね。とりあえず馬乗りになって腎臓を殴ろうとするっていう(笑)。もちろん、中身が人間であるということを暗示させる演出かもしれないんだけども、おかしかったなあ。逆にゴリラっぽい動きが必死で良かったです。
 ただこの映画をおもしろく思えたっていうのは、ぼくがサイレント映画に対してビビり入ってるってことがあるからかもしれない。サイレントってだけで、特権的というか、恐れ多く思ってしまうわけです。なんでかわからんけど。「麻瘋女」のような端正さはあまり感じなかったかな。
 

 二作ともおかしいというかメタ的な台詞があって、「怪奇猿男」の「二枚目が善人だとは限らない」、「麻瘋女」の「継母が実の母親より良かった試しはないよ」なんですけど、このちょっととぼけた感じが好きだったなあ。うまい具合に力が抜けてるように思えます。