佐藤寿保作品

 シネロマン池袋で、今日まで上映されていた「白い肌の未亡人 私を苛めて…」を観てきた。以前「未亡人変態地獄」という題名で上映されたものを改題して再上映しているようです。ややこしい。シナリオタイトルは「Look Into Me」。
 これがぼくは傑作だなあと思うんですが、クレジットが出る冒頭部分の音響が、歌舞伎町の街中にいるのにどこか地下の部屋とか通路とかを思わせるものになっていて、そこでまず肩を掴まれた。で、クレジットが終わってから、男が立ち上がってヘルスに電話をかけるんですが、そこに女が話しかける。
「歌舞伎町の公衆電話って、これですか?」
 記憶を元に書いているので正確な台詞ではないんですけど、でもおおむねこのような意味合いのものだった。この男女が主人公なんですが、男が返事をするわけです。
「公衆電話ってたくさんあるから」
 で、「公衆電話の前で待ち合わせをしてるんです」っていう女の言葉に続くんですけど、この冒頭のやり取りが本当に素晴らしいのは、行動の根拠の曖昧さにあるんだろうなあと思った。男は、公衆電話はたくさんあるから会うのは難しいだろうとわりとまっとうな回答をするんですが、女の行動はその曖昧さを否定せずに受容しようとする。この二人の差は、映画の始まりの時点での二人の思考をはっきりと見せていて、しかも終盤にある展開で二人の共感が究極的な形で出てくるわけで、円滑でイイと思います。
 ヘルスでの絡みを挟んで、男が元の場所に戻るとまだ女がいる。男は女に声をかけ、なし崩し的にホテルへ入る。女が服を脱ぐと、拘束具を身につけた身体が露わになる。この冒頭部分は、女がどういう人間であるか、それに対する男のリアクションで男がどんな人間であるか、そしてどのような関係が結ばれるかというのが端的に描かれていて、なおかつ絡みも作れるし、二人の関係や物語を先に進められるということもあるし、上手いなあと思いました。
 冒頭っていうのは、いかに設定や状況を説明しながら省略できるかなのではないかと最近思います。冒頭でもたつくと、どうしても先への食い付きが弱くなる。小説だと、「容疑者Xの献身」の冒頭部分はとにかく端的かつ読ませる作りになっていて素晴らしいなと思ったんですが、この「白い肌の未亡人 私を苛めて…」の、映画内での最初の日が一段落するまでも研がれた作りで良かったと思います。
 この女は男に「夫がいる」と言うんですが、実際はその夫はもう死んでいて、その夫が撮影したプライベートのSMビデオと共に生きているということが徐々に明らかになります。最初の日、男と別れて家に戻ってからのシーンでそこはもう想像つくんですけど、この女の部屋の美術が良くて、物語上必要なもの以外は何も置かれていない。予算上の都合で、そういったものを用意できなかった。そういう可能性もあるかもしれないんですが、でもたぶん演出だとは思うんですけど、この殺風景が女の生活と心情そのもののように見えてゾッとしました。そして女は、おそらく誰もいない空間へ向かって話しかけるという行動をとる。
 ここから男女がその関係を深めていくことになるんですが、印象深かったのは女を探して男が歌舞伎町にやってくるところで、女と無事会えるんですけど、男の真後ろからほとんど唐突に現れる。まるで幽霊のようにも見えて、このショットにはホントにドキッとした。この女にはもはや現実の生活は存在していなくて、夫との日々の記憶とそのSMプレイを撮影したビデオテープという記録しかない。それらを元に、夫とのSMプレイを反復している。
 この行動の原理は強固で、結局のところ、男の存在は揺らぎを与えることすらできないし、それどころか食い殺されてしまう。もちろん男には妻との冷え切った日々があり、妻とSM的手段を使ったセックスをするものの、はっきりと拒絶される。
 この男の方がおもしろいところは、指先で何かを探ろうとする描写が多いということで、それは冒頭のヘルスの場面で自分の目の前にあったヘルス嬢のタンポンの紐を引っ張って外してしまうという動作がまずある。他にも歯を磨きながら、ふと指を首に這わせて、自分で自分の首を締めようとする動きも印象深いです。その動きは結果として、妻のブラジャーを使っての自縛へ向かうんですが、指先がふと何かを探してるというアクションは何かないかなという無意識の現れなんだろうと思う。そして見つけたものが、女の夫の代わりをすることであり、女に首に手をかけるということ。生と死の交錯についに手が届いてしまう。
 結果として、お互いの首を絞めるという究極のプレイの果てで、男は窒息死する。女は生き残り、また反復を繰り返す。歌舞伎町の街頭での露出SMの場面で映画は幕となりますが、この女の囚われたシステムというのは本当に強固で、過去からは一切抜けられない状況が描かれている。どうしてそうなるかというと、女がマゾで従属する側だからだと思うんですけど、自らのSMプレイを録画したビデオを再生しながら、その画面からの男の声に答え、自分の喘ぎ声にかぶせるように喘ぐ、絶頂に達するという場面があって、異様なんだけど、どこか悲しみがあって好きでした。
 この場面には記録された映像の再生と、おそらく同じ行動を無機質に繰り返していると思われる女の反復という二つの機械的な動作があって、その二つが重なり合ったときに結果的に女の生身の身体が浮かび上がってくるように感じた。ビデオの中とテレビの前、その二つのSMを比べると、死んだ男の不在が目立ちます。不在となった男と残された女。この二つの人の身体が自然とあぶり出される、そんなシーンだったのではないかと思います。そして不在となったはずの男の代わりが現れ、その役割を担おうとするとき、この映画にも決定的な瞬間が訪れる。お互いの首を絞める。ここで男ではなく女の手が早く絞殺に至るというのは、女がすでに向こう側へ行ってしまっていることを現しているんだろうし、もはやプレイではなくなっていて生死を奪い合っているようにも見えました。
 最後にとても印象に残ったショットをひとつ。都市の遠景が映ってから、カメラが手前にひいていくとある一室が映って、ボンデージにガスマスクという姿の女が椅子に座っているというショット。SM詳しくないのであれなんですが、ガスマスクみたいなもので、もしかしたらそういう器具がSMにはあるのかもしれないのですけど、そういう格好の女がいて、電話にも出れずに軟禁されている。夫が戻ってくる。ガスマスクを外すと、口からどろっとヨダレが……というシーンなんですけど、ガスマスク姿がインパクトありました。都市の風景とガスマスクという組み合わせが、空気を吸わせまいとする態度が培養に結びついているように思えて、S側である夫はいったい何を育てようとしていたのか、なーんてことを想像しちゃうと、なんだかふっと怖くなりました。