映画は禍々しい。

 勝手なイメージかもしれないんですけど、ひっそりと封切られ、ひっそりと上映終了となりそうになっている「シェルター」。シネマロサでの上映は終わり、新宿バルト9では深夜上映だけになってしまっているので、ユナイテッドシネマ豊洲まで観に行ってきました。初めて行ったんですけど、チケット売り場で混雑するのはどのシネコンも同じなのか……。
 これが思わぬ掘り出し物でした。というとジュリアン・ムーアジョナサン・リス・マイヤーズ出演作には失礼な言い方になるかもしれないですけど、思っていたよりもずっとおもしろくて、よくできた映画でした。スーパーナチュラルスリラーと宣伝されてますが、要するにオカルトもののホラーでした。

 カーラは、解離性同一性障害疾患を認めていない精神分析医。
 ある日、デヴィッドと名乗る男の診察を始めると、別人格が現れた。このケースも単に彼が周囲を混乱させる愉快犯だと考えたカーラは、彼の身辺を探る内に、デヴィッドとは25年前に亡くなった故人であることが判明する。その間もデヴィッドの人格は次々と入れ替わり、カーラの疑念は深まっていく。そしてカーラが導かれるようにして辿り着いた先は、時代に葬られていた血塗られた歴史だった…。
 彼は、ただの虚言者なのか。それとも現代に甦った滅びの死者なのか。この男に潜む闇は、科学では説明の付かない止み。決して触れてはいけないものだった――。
http://www.shelter-movie.jp/

 公式サイトのストーリーはこうなっていますが、若干違っているかも。主人公カーラは男に現れる人格が存在する者なのかを確認するために調査を始めるんですが、その行く先々の美術が素晴らしかった。デヴィッドの住んでいた家では、ロープに洗濯バサミで楽譜を挟んで吊るしている様子が映されるんですが、それが妙に禍々しかった。そのデヴィッドの実家に行くまでにもいいカットがあって、カーラの運転する車が走るところなんですけど、橋の欄干か何かに黒っぽい服装の男が寄りかかっているのが画面の脇に映って、それもなんだか不吉なものに見えて良かったです。
 もう一つは、男の別の人格アダムの家を訪ねる場面。家には犬しかいなくて、屋内を探索する場面なんですが、ワンカットでカーラの行動を追っていく。ここの、来るぞ来るぞっていう緊張感がステキでした。なんだかんだで、ああいう作りにしたときってついつい引き込まれちゃうんですよね。
 この映画は懐かしい感じするというか、80年代、90年代に作られたオカルト映画を新たにやろうとしている感じがして、好感が持てました。バスルームに逃げ込むところは「シャイニング」、子供のために奔走する母親というのは「リング」と言えるだろうし、でもそれどころじゃないたくさんの映画から学んでいるんだろうなと感じた。それは誠実な態度なんじゃないかなあと思います。何かを作るときに、先行作品を参考にするのは当然のことですから。そうそう、序盤は「エクソシスト3」っぽいねとも思った。
 全体はサスペンスタッチにしていて、きっちりと折り目正しく作っていた。2時間近くあるんですけど、全然飽きさせないし、それどころか先へ先へとぐいぐい引っ張っていく様は心地良いくらい。テンポがいいんだね。とにかく伏線の置き方も含めて、シナリオはやたらと丁寧でした。幕切れの導かれ方なんて、その典型かな。もちろんシナリオだけではなくて、ガジェットもひねりが効いてて良かったと思います。
 一番おっと思ったのは、男を撮影した監視カメラに映り込んだ影の正体が明かされるところ。それは幽霊でも悪魔でもなく、音声波形だったっていうアイデアは良かったし、主人公の女医の弟が音響屋をやってるっていう設定がここで生きて、その音声が何であるのかがわかるようになるんですけど、音声ファイル化していざヘッドフォンを耳にあてたとき、聞かない方がいいんじゃないかと思わせるハラハラ感がたまらなかったです。演出が的確だってことだと思うんですけど、こういうツボを押さえた作りはほぼ全編に渡ってた。
 あと冒頭の、主人公が男と対面する前、父親である医師と男にいる部屋へ向かって廊下を歩いて行くんですけど、ここはたしか話しながらのバストショットなんですが、ドアの前で背後からの引いた感じのショットに切り替わり、精神科医なので父親はマジックミラーで様子を観察できる右の部屋、主人公は廊下の行き止まりにある部屋に入っていく。その後が良かったんですが、無人の廊下がしばし映されたあと、ゆっくりとカメラが前に進んでいく。このゆらっとした動きが、ここから何かが始まる、そしてもう元には戻らない、というのを暗示しているようでぐっと掴まれた感じでした。
 ことの真相は中盤あたりから徐々に明らかになっていく。20世紀の頭に起こったある事件が元になっている。不信心者の魂を隔離せよという呪いをかけられた男の亡霊が正体で、関係した人間の内、神への信仰を捨てた人間の魂を奪い続けている。そしてその魔手が主人公の娘に迫る……というのがクライマックスになるんですが、見事なのは終わりの部分で、結局娘さんは助からないんです。神への信心を捨てた者は助けられないというルールの明確さは非情だけど、映画を締めるものになっていたと思います。
 奪われた魂は男の内部に残って、それが人格として表面化しているというのが多重人格の真相なんですが、娘の人格が母親に語りかける。母親はその人格を受け入れ、抱き締める、かと思いきや首を絞める。ここの流れは、時間は短いもので葛藤というものはあまり感じなかったんですが、逆にそれが医者である母親の性格というか、どういう論理の持ち主かがはっきりとしていて、そんなに変なものでもなかったです。短い格闘の末、男は木の枝か何かが喉にささって絶命する。
 母親である主人公の女医さんは娘の亡骸を抱き上げる。ここで奇跡が起こったのか、神様が子供の一瞬の信仰心の消失を許したのか、娘が息を吹き返す。ほっとするのも束の間、娘が鼻歌を口ずさみ始める。ここがとにかく素晴らしかったです。この鼻歌というのが、最初の人格として登場したデヴィッドが作曲した歌で、おそらく序盤で、洗濯バサミで吊るされていた楽譜に書かれた曲なんですけど、このタイミングでまた聞くことになるとは……とゾッとしました。
 丸く収まるどころか、死よりも最悪の結果になってしまったことを、台詞でもアクションでもなく、鼻歌でわからせるっていう演出は決まっていたと思います。しかもこの曲というのが、デヴィッドが自分を慰めたり勇気付けたりするために作った曲で、物悲しさのある曲調なんですけど、それが実に禍々しい形で再び現れる。見事だなあと思っている内に、画面にはいよいよ少女の顔のアップが映り、視線がぎょろっと動いて映画は終わるのだった。