サムライ女子

 先週末から封切られた「武士道シックスティーン」。初日にさっそく観てきました。原作も先に読んでおいたという熱の入れようでしたが、よくよく考えてみると、そこまで気合入れる理由はあんまりない気がします。いったいおれに何があったんだ。

武士道シックスティーン (文春文庫)

武士道シックスティーン (文春文庫)

 原作を読んだときには、ああなかなかよくできた青春小説だなあと感じたんですが、映画もまた上出来の青春映画になっていました。ただ原作とはテイストがけっこう異なっていて、原作小説にあった青臭さが薄くなっている。代わりにあるのはW主人公の内の一人、磯山香織の苦悩なのでした。

3歳から鍛錬を積んできた剣道エリートの香織は、とある大会で無名選手の負けたことが忘れられず、その選手を追って強豪校に入学する。
しかし再会した因縁の敵・早苗は、ほぼ実績ゼロ、剣道は楽しむのがモットーのお気楽少女だった!
http://www.theater-n.com/movie_busi-do.html

 大まかなストーリーはこんな感じで原作通り。しかし上映時間を100分ちょっとに収めるために省略と改変が行われている。原作では、香織は町の道場に通っていますが、映画では実家が道場となっている設定になっている。その結果、数人の登場人物が映画では出てこない。これは時間とキャストを節約するためかもしれないんですけど、結果的には全体がすっきりとなったし、2人の主人公をクロースアップするという意味でも効果は出ていたと思います。
 もう一つ改変というか、省略されていることがあって、それは西荻早苗が日舞から剣道に転向したという事実。原作では香織がその秘密を体感するためにテレビで日舞を見たり、道場の師匠に聞いたりする場面があったんですが、映画ではなし。だから早苗の強さの根拠が今一つ曖昧になっている気がします。たぶん演じている俳優の稽古の兼ね合いとかいろいろあって省略したのかなーなんて思っちゃったりもしましたが、これだと香織の「チャンバラダンス」っていう罵りの言葉が今一つ強く伝わってこない。ぼくはこの要素はアスリート的な意味でも結構大事なことだと思ってたので、意外でした。流れの中ではさほど気にもならなかったけど。
 それ以上に、この映画は想像していたよりも重たかったです。原作は軽めの青春小説という感じで、2人が交互に一人称で語っていく形をとっているんですが、映画では単純にモノローグを使うようなことはせずに、割と淡々と2人の女の子を追っていくようなスタイルでした。剣道をメインに扱っているからもちろん説明は入るんですけど、ここ一番では映像で見せるようになっていて、例えば剣道を続ける根拠やら何やらを失った香織が丘の上でひとり佇んでいるというショットだったり、無人のブランコが風に揺れているショットだったり、そういった無言のシークエンスがいくつかあって、行き場のなさやわからなさが画面からにじみ出ていたと思います。剣道のシーンはともかくとして、カチャカチャとせわしなくつなぐのではなく、全体的にゆったりとしているカットはぼくには心地良いものでした。
 わからなさっていうのは大事なことで、自分を倒した相手を見つけ出したものの、彼女は自分が思っていたような強敵ではなく、どうすればいいのかわからなくなってしまう。そういう状況に陥った香織を演じた成海璃子の苦悩の顔は素晴らしかったです。そもそも存在していないものを探すというのは、映画にかかわらず重要なドラマだと思います。
 最近観た作品だと「九尾の狐と飛丸」というアニメーションがそんな感じで、幼いころから共に育った少年と少女がいて、でも少女は実は九尾の狐の仮の姿で、少年の前からいなくなってしまう。その少女は仮の姿だからそもそも存在しないはずなんだけど、少年は存在しない少女を追い求めるっていう話だった。これはアニメーションですから、少年・飛丸はヒロイックな活躍をしてしかるべき結末が訪れます。
 「武士道シックスティーン」はジュブナイルみたいなものですから、成海璃子は一応の結論を出し、成長した姿を終盤で見せてくれます。ぼくなぞが観ているとじゃっかん気恥ずかしい気もしますけど、こう終わるしかないよねっていうものでもあるし、まっとうな形だと思います。何かを探すっていうのは一つの大きな主題だし、それが存在しないようなものであればなおさらなんですが、この映画では助けを借りながらもついに見つけ出すことに成功してしまうわけで、そこにはささやかなカタルシスがあるように思えます。。
 ただ存在しない強敵の姿を求めて、早苗=北乃きいちゃんの腹を竹刀で殴る、実家の道場で稽古をつける、というのは常軌を逸しているように見える。しかしそれをギリギリのところで日常の側に押しとどめているのは成海璃子の困ったような顔なんだよね。ここら辺は監督の、女優を魅力的に見せようとする意識がうまく作用したのかな。「ロボコン」の監督さんだし、そうなんだと思いたい。
 そうそう、笑いの要素を押さえて、ギャグっぽい場面の大部分は成海璃子の顔がこわいということにしてしまったスタンスは正解だと思います。香織の行動というのをコミカルにしすぎていたらやだなーと思っていたので、これくらいにとどめておいてくれて安心したというか、しっくりきたというか。
 最後、おそらく数ヶ月ぶりくらいに再会した2人が軽口を言い合う姿はもうそれだけで十分で、原作にあったポエムっぽいのが引用されることなく終わってほっとしました。文章で見せるのと映像で見せるのは違うことだから、全体に抑えた作りになっているこの作品はその抑制がとにかく効いていたなあと感じた。その一方で、お揃いのサンダルを履いて並んで歩き出すシーンの流れっていうのは軽やかなアイドル映画のようにも見えて、気持ち良かったなあ。そう、まるでヌーヴェルヴァーグ。なんて。