歌舞伎

 歌舞伎座の夜の部を観てきた。

  • 一、山吹
  • 二、天守物語

 演目は上記の2作なのだが、マジで金返せよレベルの出し物だった。なんかもうキレ気味で観てました。下座がないとかツケ打ちがないとか、そういったこと関係なく歌舞伎ではないと思った。そもそも客に15000円出させるレベルの芝居じゃない。ぼくは三階の安い席で観ていたから、まあしょうがねーなくらいで済ませられるのだけれど。
 「山吹」。役者は頑張っていたと思う。笑三郎歌六はあそこまでよく台詞をものにしたもんだ。ただ、倒錯的な、フェチ的な空気が全く出ていない。これは致命的。老人が美女に打擲されるっていう、今でいうSM的なシチュエーションの中で、逆に、一瞬ではあるものの、美女がサディスティックな快楽に気づくっていう場面があるのだけれど*1、ここがよくなかった。罪と罰に置き換えられてしまっていたような気がする。最初はそうなのだけれど、段々それが建前になっていって、罪を与える意識と罰を受ける意識が完全に刹那的な快楽に変わるっていう、倒錯的というか、今ちょっと言葉が出てこないが、そういう心理の流れがあるはずなのだが、あまり内面の変化が見られなかった。それは育ちの良さというか、上品さみたいなものが出てしまっていたからなのかもしれない。以前歌舞伎座で谷崎の「盲目物語」が上演されたときの、中村勘三郎の極めて倒錯的な芝居は気味が悪くなるくらいに変態だったのだが、この「山吹」においては、よくなかった。これは役者じゃなくて、演出家の責任なのかもしれないのだけれど。台詞はよかった。だから残念。「天守物語」もそうなのだけれど、歌舞伎俳優の身体が前に出てこない。それがつまらない。台詞劇だからしょうがないのかもしれないが、打擲の場面でさえ、やはり希薄だった。良かったのは台詞回しだけだ。あとはだめ。
 「天守物語」。こっちは論外。何回か途中で帰ろうかと思った。右近の朱の盤坊が一番歌舞伎っぽかっただろうか。でもやっぱり歌舞伎じゃない。あの背景を使った演出は何なんだ。安っぽすぎるし、子供だましもいいところだ。獅子の立ち回りのところでさえ、ツケ打ちを使わないのはどうしてなのだろう。鏡花の劇世界を立ち上げるのはもちろん重要だけれど、歌舞伎座で、大歌舞伎を銘打って上演する以上は、それだけをするべきじゃないと思った。鏡花の芝居を鏡花の芝居として上演するのではなくて、鏡花の芝居を歌舞伎として上演しなければならないはずだろう。演出の問題なんだろうな。泉鏡花であることを考えすぎていて、歌舞伎をないがしろにしすぎている。歌舞伎の力が生きていない。野田歌舞伎も串田歌舞伎も歌舞伎だったけれど、これは違うと思った。
 そもそも芝居としてもおもしろくなかった。ク・ナウカ版の「天守物語」の方がよっぽどおもしろかったよ。いっそ松羽目物に書き直して舞踊劇にしてしまうとか、それくらいの覚悟を持ってもらいたいもんだ。歌舞伎が持っている猥雑なパワーが全くなかった。絵的には綺麗だけど、錦絵の綺麗さじゃないし。そもそも今上演される意味も感じられない。
 ただ、評価できる点もあった。姫川図書之助のはじめとした、ただの人間たちは花道のスッポンから登場する。このスッポンから出入りするのは、普段の歌舞伎なら化け物とか狐とか妖術使いで、ただの人間はここを使わない。しかし今回は図書之助はじめ、ただの侍に至るまで、平然と出入りしている。これは天守が人間の世界ではなく妖怪の世界であるからで、状態が反転しているからなのだろう。つまり普段は人間の世界に出入りする化け物などがスッポンを使うわけだが、今回は化け物の世界に出入りする人間がスッポンから登場する。この反転具合はおもしろかった。逆にいえば、これだけだった。
 今月は舞踊はないし、ていうか鏡花劇ばかりで、本当にきついわ。来月は逆に舞踊が豊富で楽しみなんだけど。そういえば昼の部はさらにおそろしいことになっているようだ。ただ、観に行くのは今月末なので、少しは演出に手を加えて、俳優のアンサンブルも良くなっているのだろう。ていうか、良くなっていろ。まじで。

*1:ト書きに「興奮しつつ」とあるから、そうなんだろう。