続・小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか?

 しつこいかもしれないが、もう少し考えを進めてみる。
 いろいろなところで反応を見ると、映像派の人が多数で、映像思い浮かべないよ派とは全然拮抗していないよう見えるのだった。映像から受ける情報量と文字からのものではかなり違うからなのだろうか。
 前に、ぼくの小説も読み手によっては映像化されているのだろうか、という疑問を書いたら、反応してくれる方がいて、ものすごく嬉しかった。ありがとう、渡部初貴さん、Revinさん、2%さん。このお三方のコメントを読む限り、俺の、書き手としての意図を超えたものが脳内で広がる可能性があるということが理解できた。それを仮に読者補正と呼んでみる。
 これって結構厄介なんじゃないかと思う。何しろ風景とか人物とかが、ある程度勝手に想像されているということになるわけで、かといって、それを避けるために描写を細かくしていっても、それは小説としては全くおもしろくないのではないのかと考えた。
 ただ、映像化云々関係なく、与えられたわずかな言葉からイメージを膨らませるというのは読み手として真摯に小説に向かい合っているのだろうなと思うし、素敵だよ。ぼくは、どちらかというと、イメージを膨らます、というよりも、イメージをリンクさせる、つまり既存のテキストの文脈につなげてしまう癖があるので、やはり映像ではなく文字で情報を受け取っているんだろう。もちろん、そういう文脈を越えたところにある小説というのがこの世には存在している。

 ぼくのかあちゃんは家から走りでてきたところ。そして、井戸に飛び込むわ、と気狂いみたいに、叫びつづけた。井戸の底にぼくのかあちゃんが見える。落ち葉だらけの緑っぽい水面に浮いているのが見える。そしてぼくは中庭に向かって駆けだす。井戸はそこにあるんだけど、アルマシゴの丸太で作った井戸べりは崩れかかってる。


 駆け寄って、のぞき込む。でも、いつもと同じ。ぼくがそこ、下にいるだけ。ぼく、下から、上に反射している。ぼく、緑っぽい水面につばをはくだけで消えちゃう。
レイナルド・アレナス「夜明け前のセレスティーノ」

 上の引用はレイナルド・アレナスの「夜明け前のセレスティーノ」の冒頭部分なのだけれど、この小説や同じアレナスの「めくるめく世界」は何だかもう超越してしまっているので、ただただ圧倒された、読んでいる間、読み終えたあとも。
 おっと話がそれた。その読者補正(仮)が効果的に作用されるときもあれば、妄想がフライング気味になって「君、なんだね、この展開は」みたいなマイナスよりの感想が勝手に生まれるんじゃないかという危惧があるのだが、それは単純な実力不足だろう。ただ、「寂れたバス停」という色気もクソもないような表現から、いろいろと状況を作ってしまった2%さんはすごいなと思います。2%さんになら、何かいろいろ捧げられる。


 そういえば初貴さんのところ*1で言及されていた、「映像化する人間は書くときどうか」というお題だけれど、ぼくは基本的に映像はほとんど浮かばんので、あんまりあれなのだが、どうなんでしょうね。書くときは文字、読むときは映像なんて人もいるのかしら。
 でも極端な話ね、映像が浮かんでいて、それを表現したいのなら、映像に行けばいいんじゃねって思うのよね。映画とか、自主制作でも作れるわけじゃないですか、金と時間とやる気と人脈があれば。いや、これは冗談ですけれど。
 あたしはまず言葉と構造にこだわっちゃうから、書き手としては映像からは程遠いですね。先日のオリジナルコンテストに出したのは、映画の長回し的なものをイメージしていたので、ある程度ビジュアルイメージが強かったかもしれない。でも書いているときは言葉と向かい合っているつもりだし、やっぱり文章派です。


 やべー。読み返してみて思ったが、上の文章何がいいたいんだか全然わからん。(笑) 考察めいたものは、書くのが苦手だぜ。
 でも、せっかく書いたから、アップしてみる。