書くとか書かないとか書けとか書くなとか

 先日、Ryo-Tさんが日記に書かれていたことにひどく共感して、よーしテキストに保存してたまに読み返して元気を出そうと思っていたらいつの間にか消えていて軽くへこみながらも、まあ人生一期一会だよねと無理矢理自分を納得させているぼくがいる。
 何をもって上手いとするか下手とするか、その線引きがぼくにはとんとわからないけれど、書けば書くほど上手くなるという言葉を信じることはぼくにはできない。先日の打ち上げ後、カラオケで駄弁っていたときにもこんな話になった気がしないでもないが、あんまり憶えていないので*1まあそれはいいとして、ぼくは量より質を重視したいよ派なので、書けばいいってもんでもないだろうと思うのだ。思いたい。思わせてください。同様に長ければいいってものでもないだろうとも思っている。筒井康隆の「池猫」なんか文庫で2ページしかないけど、傑作だものね。
 書くという気持ちだけで書き連ねた1000枚と一文字一文字に魂を込めた1枚だったら、後者を選ぶ。だからこそ、青木淳悟の小説はおもしろいんだと思う。最新作はまだ読んでいないけれど。
 しかしながら、ひでさんの考え方もよくわかる。最初のうちは確かに書き続けたほうが糧になるし、実際ぼくにも書き続けた時期がありました。それはおもに時間のあった学生時代だ。でも書けば書くほど上手くなるという時期っていうのはごく最初の段階だけなんじゃないかと思う。そのうち頭打ちになるはずだ。だから構造とか語り口に目線が向いてしまって、話の筋立てに興味が持てなくなる、っていうのはぼく自身なのだけれど、要するに「上手くなる」っていうよりも「あの手この手で書けるようになる」っていうのが真理なんじゃないかと思う。
 ここでにっけるさんのご意見が浮上するのだけれど、要するに「全体を把握する力」っていうのが重要なんだろう。「物語るためのエッセンスを抽出する能力」と書き換えてもいいのかもしれない。四世鶴屋南北なんかその典型。一番大事なのはここなんだろうと思いますですよ、ぼくは。
 もう一つ最後に。上手くなればいいってものでもないと思うんだ。テクニカルな要素で作家性が損なわれるのは避けなければならない事態だろうし、あとになればあとになるほど何かダメになっている作家というのも確実に存在している。例えばレイナルド・アレナスは「夜明け前のセレスティーノ」に比べると、「ハバナへの旅」は今一つだし*2、ホセ・ドノソは「夜のみだらな鳥」がやっぱり最高傑作だし、カルペンティエールなんか後期のはダメだし、中上健次だって初期の小説の方が密度が濃いし*3佐藤友哉もぶっちゃけ最近ダメだし、浦賀先生はこれは好き嫌いかもしれないけれど、ぶっちゃけ八木シリーズより安藤シリーズの方がおもしろくね……ってあれ? まあ、あれですよ、スティーヴン・キングとか古川日出男とかは例外だと思うんだ。やっぱこの人らはストーリーテラーだからだろうか。
 いろいろ書いてきて、レイナルド・アレナスの「自由の必要性 Nececidad de libertad」はやっぱり示唆に富んだ評論だなと思ったのだった。内容については、まんま引用すると青土社の方に訴えられるので、ユリイカレイナルド・アレナス特集号をご覧ください。買ってください。ぼくは青土社の社員ではありません*4

*1:何だかんだ酔いが残っていたから。顔に出ないけれど、そんなに酒に強くない。

*2:ペンタゴニア五部作は早く日本語訳出ねーかなーと思っている反面、出なくてもいいよ、幻滅するからとも思っている。

*3:というよりわかりやすいだけかもしれないのだけれど。

*4:青土社といえば、「現代思想」のジャック・デリダ特集は楽しみだ。