東野圭吾

 「さまよう刃」を読んだ。最近なぜだか東野圭吾のプチブームが起こっていて、あらすじから好みっぽいものを探して読んでいるんですが、どれもおもしろい。しかもうまい。小説が綺麗に流れているのと、何を描いて何を省略するかというところの判断と波長が合うようです。

さまよう刃 (角川文庫)

さまよう刃 (角川文庫)

 以下ネタバレありの感想。黒沢清監督の「修羅」二部作のネタバレもあり。
 この「さまよう刃」もかなりおもしろく、いいエンタメ小説だなと思った。

長峰重樹の娘、絵摩の死体が荒川の下流で発見される。犯人を告げる一本の密告電話が長峰の元に入った。それを聞いた長峰は半信半疑のまま、娘の復讐に動き出す――。遺族の復讐と少年犯罪をテーマにした問題作。
http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200708000405

 上記の通りの復讐ものなんですが、わかりやすいキャラクター設定とスピーディーな展開で読み終えるまであっという間でした。エンタメっていうのはこうあるべきなんだろうなと感じる。とにかくおもしろかった。 
 ただ食い足りない感じがするのも確かで、それはたぶん終わり方がそれなりのところに落ちてしまっているからなんだろうとも思った。突き抜ける部分がないというか、復讐ものというくくりで考えると、映画になりますが、黒沢清監督の「復讐」二部作や「修羅」二部作の方が踏み込んで描いていると思う。
 この小説に出てくる長峰という人物はかなり立派な人で、そういう人が全てを了解しながらも復讐に手を染めるところにこの小説のエンタメらしさがあると思うんですが、『復讐』という行為とその結果をはっきりと示すためには常識を突き抜けたといえばいいのかわからんですけど、踏み越えたような人物性が必要なんじゃないかと思います。
 黒沢監督は哀川翔という素晴らしい俳優を得て、「復讐」二部作と「修羅」二部作を作った。この4本というのはVシネではあるけれども本当にどれも傑作で、形は変わっているものの、復讐という行為が描かれる。「さまよう刃」が踏み込めなかった領域までをはっきりと作っていて、特に復讐を終えた者の空虚な日々と復讐そのものが無効になる瞬間を暴いた「蜘蛛の瞳」は大変な映画なんだってことを「さまよう刃」を読み終えたときに、というか終盤にさしかかったあたりで再確認した。
 あともう一つ思ったのは、「さまよう刃」では復讐される側の少年が良いところが何もないような、救いようがないような人間として設定されていて、胸くそ悪いキャラなんですけど、黒沢監督の「蛇の道」と「蜘蛛の瞳」だと、ヤクザなんだけどもどこか憎めないようなユーモアが存在していて、でも無感動に射殺されちゃうっていう残酷さもある。たぶん復讐とは何かというのをとことん突き詰めた結果だと思います。それを台詞に頼らずに映像と哀川翔という俳優の身体を使って描き出している。ほんとすごい。そろそろまた翔さん主演で撮らないものですかね、黒沢さん。
 エンタメと娯楽っていうのは似ているけど、実はかなり違う言葉なんじゃないかって最近は思い始めた。「さまよう刃」はエンタメ小説で、わかりやすくムカつく犯罪者がいて、復讐が遂げられるのかどうかが物語の重要な点になってくる。長峰が少年を撃ち殺せば読者はスカッとするのだろうけれども、単なる勧善懲悪で終わらないところが魅力なのかなとも思う。そこがぬるいと思う人もいるのかもしれないけれど、ぼくはこの小説はこの終わり方で良かったのだと思う。復讐を簡単には肯定しまいとする態度はまっとうだと思うから。
 ただ『復讐もの』というジャンルを考えると、黒沢監督のVシネ4作には劣るよなあとも思う。「さまよう刃」はこれどうするんだろう?という疑問が、こうなっちゃうよなあ…に変わるまではとにかくおもしろい。終わり方が、これでいいとは思うけれどもどこか食い足りない、と思ってしまう小説だった。
 結論としては、「修羅」二部作のDVD廃盤はもったいなさすぎるので再発してよっていうこと(笑)。