たまには歌舞伎のこと。

 コクーン歌舞伎の「桜姫」を観てきた。先月の現代劇版は観に行っていないという前提での感想になりますが、これおもしろかったです。4年前に上演されたものよりかははるかにおもしろかった。
 桜姫の人生が見世物小屋で上演されているという枠組みを作った上での上演というのが4年前の演出だったんですが、今回の上演でもそれは継承。しかしながら、今回決定的に良いと思ったのが笹野高史さんの役回りで、この人が見世物小屋の小屋主を演じる。この人に狂言回し役を任せているから、今回は全体の構成がはっきりしていて、狙いも明確になったと思う。
 白水社の歌舞伎オンステージの「桜姫東文章」では、発端の江の島児ケ淵が終わると劇場頭取が出てきて「ただいまご覧にいれまするが当狂言の発端でございまして……」というような口上があって、次の新清水が始まるという趣向になっているんですが、これと似たことをやっていて感じられて嬉しかった。劇中口上とか切り口上が好きなもので(笑)。
 前の「桜姫」ではそこがわかりづらくて、串田監督の本を読むまでは見世物小屋での芝居という形もわからないでいました。本を読んで、ああそういうことだったのか……と思ったんですけど、それまでこんなつまらない芝居を……と思わぬこともなかったです。
 でも今回は全体の構図・狙いがはっきりしたこと、それとやっぱり中村勘三郎の参加というのが芝居を強固にしていたように感じました。「桜姫東文章」って、桜姫が周りの男を破滅させながらも生き抜いていくような生のドラマだと思うんですけど、今回の桜姫=七之助、清玄=勘三郎という力関係のせいなのか、清玄が出てくるところは男を破滅させる桜姫のドラマではなく、破滅していく清玄のドラマの方がはるかに強かった。
 発端はともかくも、高僧だった清玄が桜姫(=白菊)への執着を見せ始めてからの勘三郎さんの凄味というか、異形さは素晴らしかったと思う。笑いにふっているときも楽しくていいけど、ぼくはガチでやっているときの勘三郎さんが好きでねえ。主に時代物なんですけど、最近だと例えば五段目・六段目の勘平とか千代萩の政岡とか、すごい好きだったなあ。九段目の戸無瀬も良かったっけ。
 今回の清玄は、発端は情けなさを見せるところでもあるから多少笑いが起こるのはしょうがないとして、全編通して抑えてやっていたのが良かったと思います。目立たないんだけど、中央にいるべきところでは中央にいる。静かにしみてくるような芝居でした。
 逆に男っぷりを見せる橋之助さんの権助が、これ一役になったからかもしれないけど、思っていたよりも良かったです。こういう色気のあるワルの役ってあんまり似合わない印象だったんですけど、今回はそうでもなかった。本来は二役でやるはずの権助と清玄を二人の俳優に割ることによって、そのコントラストがはっきりしたからかな。よくわからないんですけど。とにかく今回はバランスが良かったという印象。
 そして幕切れ。前回の、夫と子供を殺した桜姫が狂女となって踊る幕切れは、すべてが元に戻ることなんてありえないんだというメッセージは理解しつつも受け入れがたいものだったんですが、今回の演出はそこが変わっていて、一番感心したところでもありました。
 最後、桜姫が子供を抱いて立っていて、周りにはおそらく吉田家の面々が戻ってきていて、お家再興ということになっているんですけど、桜姫の立ち姿がぼくにはどうしてもうぶめに見えてしまった。うぶめっていうのは死んだ母親の亡霊だから、生きた桜姫はそこにはいなくて、吉田家の息女という入れ物だけが立っている。そういう演出なのだろうと思った。
 お家再興は叶ったけれども、全てが元通りになることなんてありえないというところがはっきりと出ていて、とてもいい幕切れだなと思った。本来の桜姫からするとあれなのかもしれないけれど、いい解釈だと思うし、今の時代へも響いているようにも思える。
 まあ、かなり楽しかったです。他にも殺し場や濡れ場など、見せ場はたくさんだった。グランギニョルやメロドラマというキーワードが浮かんできて、それは見世物小屋という枠組みに直結するものだし、結局は歌舞伎の中の見世物じみた要素を蘇らせることになるんじゃないのとも思った。演劇の祝祭性を見せてくれた「夏祭浪花鑑」といい、コクーン歌舞伎は毎回はっとさせてくれるような気がします。少なくとも、玉三郎泉鏡花ものよりかははるかに刺激的でおもしろい出しものであると僕は断言できる。
 などとまとまりもなくつらつらと。

桜姫東文章 (歌舞伎オン・ステージ (5))

桜姫東文章 (歌舞伎オン・ステージ (5))