勝手に――

 文学界に掲載された綿矢りさの「勝手にふるえてろ」を読んだ。本当は舞城王太郎の「獣の樹」を買おうとしてたんですけど、冒頭部分に目を通してみたらあまりに素敵でビビビと来たので買ってみた。

文学界 2010年 08月号 [雑誌]

文学界 2010年 08月号 [雑誌]

 読んでみて、最初の一段落目はやっぱりすばらしいと思った。アングラ演劇みたいなモノローグで始まって、『でも疲れたな』の一言で力みをふっとかわしてくるところのリズムが絶妙だった。みょうに馴染んだ。ただ以降はわりと普通の、というか綿矢りさらしい文章といいますか、わりとなだらかでサラサラと読み易くてガツンとくるようなところはなかったかな。
 しかしこの小説は一人称で書かれているんですが、なんだか信用できない語り手だなという印象があって、ちょっと不気味な感じさえしたくらいだった。本当の現実から少しズレたところにいるんじゃないかという気がして。元オタクというキャリアもその印象を強めているのかもしれない。とはいえ、いちいち不審を抱いていては進まないので、書かれていることがすべてであるというスタンスは忘れないでいたいところです。
 子どもの頃からの片思いの相手=イチと、告白してきた同僚=ニとの間で揺れ動く元オタク女子が描かれるんですが、イチへの思いが描かれる場面の方がはるかにおもしろいのは、この一人称がそもそも妄想を孕んでいて、その膨らみがスリリングなんだろうなと思った。だからこそその想いが弾ける場面が全編のクライマックスのようになっていて、以降は物語に蹴りをつけるためのアリバイのようになってしまっている。というか、ニと私の関係はあまりに紋切り型でおもしろくなかったな。入り組んだ関係、造形になっているイチと私の顛末と比べてしまうとよけいに。
 主人公の私がウィキで絶滅した動物の項目を読むのが好きというのは、あまりに長い片思い期間を持ち、さらには処女である自分と重ねていて、そのナルシスティックなところは読んでいる分にはおもしろいんだけども、悲惨さと裏表なんだろうなとも思う。だからイチとの決定的な別離が訪れてからの心理は空回りしていて、読んでいてなんか辛い。別にぼく自身を重ねているわけではないんだけど(笑)。
 絶滅するのではなく、誰でもなくなる道を選ぶヒロインは川上未映子の「ヘヴン」で斜視を治療した主人公と重なりました。ぼくは、あれは本当に残酷というか、ゾッとするような終わり方だったと思うんですが、この「勝手にふるえてろ」はコミカルな恋愛小説の体裁を最後まで保っていて、こんな問いが最後の方に出てくる。

さあ私は、愛してもいない人を愛することができるのか?

 『私のなかで十二年育ちつづけた』美しい愛ではなく、ニの中で育った愛をはたして主人公は受け入れることができるのか。おそらくダメなんだろうなと思うんだけども(笑)、冒頭にあった重さをさらっとかわす感じがここにもあって、でもその裏にたしかにつきまとっている居心地の悪さが、この小説をたしかなものにしているんだと思います。読んでいて、おもしろい小説だった。
 あと題名がいいですよね。「勝手にふるえてろ」って。本文にも出てくるけど、いいフレーズだなと思う。